★日高文化歴史散歩 「第22章 伊能忠敬の足跡を辿る 晩秋の日高沿岸サイクリング編 【1~67】!」 2022年(令和4年)11月下旬

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【全体のイメージ】

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【参考:北海道日高振興局管内の7町の地図~水色】

『Ⅰ 伊能忠敬とは 【1~4】』

写真1

1.上の写真は、私が以前、千葉県銚子へと旅行した帰途に、小江戸として知られる『千葉県佐原』に立ち寄った際に撮影した「伊能忠敬氏」の銅像と、同氏が事業家として活躍した時の「旧宅」です。

 同氏は、日本で初めて、実測により「精緻な日本地図」(大日本沿海輿地全図:だいにほんえんかいよちぜんず)を作成したことで有名です。

写真2

2.私は、にわか勉強で同氏について調べると、同氏は隠居後に50歳で江戸に出て「天文・暦学」を学び、55歳から足かけ17年にわたり、「第一次~第十次」の測量を行ったとのことです。

 上の図は、アバウトで恐縮ですが、「第二次~第四次」の測量の足跡です。

 「青線」が1801年の第二次、「主に東日本の太平洋側」を測量。

 「緑線」が1802年の第三次、「主に東日本の日本海側」を測量。

 「紫線」が1803年の第四次、「主に中部日本」を測量。

 なお、以上は幕府の補助金により、「同氏の個人事業」として行われました。

写真3

3.その後、同氏は幕臣に登用され、それ以後は「幕府の事業」として測量が行われます。

 上の図は、「第五次~第八次」の測量の足跡です。

 「赤線」が1805年~06年の第五次、「主に西日本」を測量。

 「青線」が1808年~09年の第六次、「主に四国等」を測量。

 「緑線」が1809年~11年の第七次、「主に東九州等」を測量。

 「紫線」が1811年~14年の第八次、「主に西九州等」を測量。

 その後に1815年に第九次、「主に伊豆七島」を測量するも、忠敬氏は高齢のため参加せず、代わりに1815年~16年に第十次として、「主に江戸府内」を測量。

写真4

4.さて、上の図は、肝心の1800年の「第一次の測量」の足跡です。

 私は、同氏の最初の主たる測量地が何と「東蝦夷地(松前藩の東側)」、つまり、現在の北海道太平洋側だと、このたび初めて知った次第です。

 「地球の大きさ」を知るために、高緯度の地へ行きたいとの思いから、同氏が蝦夷地測量を幕府に申し出て実現。

 なお、当時の東蝦夷地の状況は、ロシア南下政策に危機感を抱いた江戸幕府が、前年の1799年に「当地を直轄地」とし、松前藩の運上所を「会所」と改めて、幕府の出先機関としています。

 ちなみにその道中、同氏は箱館付近で「間宮林蔵氏」と出会い、その後に間宮氏は1809年に「樺太が島」であることを発見、1811年には江戸で忠敬氏から測量術を学び、「蝦夷地を測量」しています。

(残念ながら、宗谷岬にある「間宮林蔵像」は、道内にあるため、いつでも行けるとの思いから、過去に写真撮影は行っていません・・・・)

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4-2.忠敬氏は1818年に73歳で死去、その後、弟子達によって「大日本沿海輿地全図」が完成しますが、蝦夷地の部分は、ほぼ「間宮氏の測量データ」が用いられたとの説が有力とのことです。

 ちなみに、忠敬氏が亡くなった1818年は、偶然、「蝦夷地の内陸部の実状」を明らかにし、本シリーズ第20章で取り上げさせていただいた「松浦武四郎氏」が出生した年です。

 第20章のイメージは上の通りですが、詳しくは下記をクリックしてご覧ください。

『Ⅱ サルモンベツ→ニイカップ 【5~16】』

日高地方1 (PNG 50.4KB)

【参考:北海道日高振興局管内の地図】

写真5

5.以上、「前置き」が長くなり申し訳ございません。

 時は遡ること1800年(寛政12年)6月24日(旧暦)、現在の門別本町の北東にある『門別稲荷神社』付近にやってきました。

 なお、当地には9月中旬の本シリーズ「第17章の日高門別編」、及び10月下旬の「第20章の松浦武四郎編」で二度訪れていますが、また、当地を訪れることになろうとは、正直思っていませんでした。

写真6

6.これから、「忠敬氏含む測量隊一行」の足跡を辿ることとしますが、基本的に日高地方の大動脈である太平洋国道沿いを【東進】することとなり、ただ「車」で走るのでは、正直おもしろくありません。

 そこで、このたび「秘密兵器を投入」することにします。

 「 折りたたみ自転車! 」

 なお、このHPは何を隠そう、「スポーツ振興」も目的にしています。

写真7

7.今回は、日高地方太平洋沿岸をひたすら東へ向けて、「サイクリング」することにします。

 さらに、JR日高線が正式に廃止され約1年半が経ちますが、旧各駅の現状に関心があるので、あわせて「各駅を写真撮影」することにします。

 なお、上の写真は『旧日高門別駅』の様子です。

写真8

8.が、しかしながら・・・・当地まで来る道中、狭い幅員の国道を「ダンプカーや大型車」が爆音を上げ、至近距離で通過する様子を見て、完全にビビってしまった私。

 結局、やはり新冠までは「車」で向かうことに・・・・

 一般的に北海道の道路は、冬の除雪時に「雪を堆積する場」が必要なため、本州より幅員が広いところですが、日高地方は幸か不幸か積雪が極めて少ないため、総じて「幅員が狭い」と感じます。

写真9

9.なお、忠敬氏は測量にあたり、「簡単な日記」を残しています。

 同日記によれば、6月23日(旧暦)にユウブツ(現苫小牧市勇払)を出発し、測量しながら「サルモンベツ」に到着して宿泊。

 ちなみに、測量は「1日約10時間、約50km位」行われたとのことです。

 翌24日は、「サルモンベツからニイカップまで」測量が行われており、一方の私は、現在の国道235号線(優駿浪漫街道)を車で【東進】します。

 

写真10

10.途中、現日高町(旧門別町)と新冠町の境を流れる『アツベツ川』を、忠敬氏は舟で、その他は歩行で渡ったとのことです。

写真11

11.さて、ニイカップの西側には、現在、「上り坂の登坂車線」があり、何故か各車とも当地付近でアクセル全開、「スピードを加速」させるため、当地付近はいつも排気ガスで充満しています。

写真12

12.上記の登坂車線の「撮影スポット」を探しに、付近の脇道を私がぶらぶらしていた所、新発見をいたしました。

 『行啓記念碑』です。

 左側の記念碑は、「町村知事の名前」が刻まれているので、かなり以前のものだと思われますが、最近だと平成18年(2006年)、当時の天皇皇后両陛下が「日高地方」を御訪問されています。

写真13

13.近くの看板には、当地が「皇室の方々が訪れた由緒ある地」で、大正天皇が当地でお茶をお召し上がられたとの記載。

 私は、この地の存在は知っていたものの、「何処」にあるのかはこれまで知りませんでした。

 まさか、この由緒ある地が、国道235号線名物の「登坂車線のすぐ脇」にあるとは・・・・

写真14

14.さらに近くには、新冠の歴史と伝説の「トド岩」の看板がありました。

 私は、この岩の存在も知っていましたが、その「トド岩」を見たことはありません。

 

写真15

15.上の写真は、登坂車線の歩道で、上の11の写真を撮影した際に「南側に体を90度回転させ」、太平洋側を撮影したものです。

 写真の岩場が「トド岩」かと思いましたが、後で地図で調べると、本物はもう少し東側にあるようです。

写真16

16.さて、当地で大正天皇がお茶をお召し上がられたとのことで、私も近くにある「太平洋を一望出来る喫茶店」で、ホットコーヒーをいただくことにします。

 

『Ⅲ ニイカップ→現静内 【17~23】』

日高地方2 (PNG 50.3KB)

【参考:北海道日高振興局管内の地図】

写真17

17.その後、「ニイカップ」に到着、上の写真は『旧新冠駅』です。

 なお、「忠敬氏測量隊」は、翌6月25日も雨天のため当地にとどまっています。

 さて、私は当地からいよいよ「自転車」で、東へサイクリングすることにします。

写真18

18.その出発前に、現在の「旧新冠駅」の様子を写真撮影。

 旧日高門別駅とともに、何故か当駅も「除草」がなされています。

 

写真19

19.太平洋沿いの国道235号線を自転車で【東進】、太平洋に「夕日」が沈んでいきます。

写真20

20.そして、現在の新ひだか町静内の「大型商業施設」が集積するエリアに到着。

 なお、私のかねてからの「素朴な疑問」として、国道を挟んで左側(北側)に『イオン』があるのに、どうして右側(南側)に同系列のマックスバリューがあるのか、不思議に思っています。

 「日高富川の店舗」は、かつてはダイエーだったということは、私も昔利用したことがあるので知っているのですが・・・・

写真21

21.そして、『旧静内駅』へと到着。

 ニイカップからあっという間の「サイクリング」でした。

写真22

22.上の写真は、夕焼けに染まる「旧静内駅のホーム」の様子です。

 なお、現在の日高地方の中心地とも言える現静内は、残念ながら「忠敬氏の日記」には、全く登場しません・・・・

写真23

23.さて、旧新冠駅前に駐車している車を回収しに、「バス」で西へ引き返し、本日の私の日程は終了です。

『Ⅳ 現静内→ムクチ(現浦河) 【24~43】』

日高地方3 (PNG 50.3KB)

【参考:北海道日高振興局管内の地図】

写真24

24.さて翌日、天気予報が見事に外れて「快晴の状況」ですが、西から低気圧が接近しているため、困ったことに「猛烈な東風(向かい風)」が吹いています。

 私は、「静内川」を渡り、東へとサイクリングしますが、強風のために自転車のギアを一番軽くしなければペダルを漕ぐことが出来ず、「ハツカネズミの回し車」のように中々前に進むことが出来ません。

写真25

25.なお、「忠敬氏測量隊」は、6月26日にニイカップを出発、途中のウセナイで中食をとっています。

 現在、『有勢内』という地名がありますが、当地付近に湯の川橋という橋や「静内温泉」があり、私の勝手な想像ですが、当時は登別温泉や川湯温泉のように川に温泉が流れていて、足湯で疲れを癒やしたのかもしれません。

写真26

26.そして、現在の東静内にある『金刀比羅神社』の前を通過。

 江戸幕府が1799年に東蝦夷地を直轄地とした際、出先機関の会所を現在の「元静内」に置きましたが、その後の1858年に現在の「東静内」へと移設、当神社もあわせて当地へ移設されたとのことです。

 

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26-2.なお、国道235号線(優駿浪漫街道)沿いにある「歴史文化施設等」について、西から東に順番に掲載したものを当課HPに掲載しており、詳しくは下記をクリックしてご覧いただければ幸いです。

写真27

27.その後、上記の『元静内』に到着。

 なお、振興局の史料によれば、1805年に「間宮林蔵氏」が当地で勤務したとのことです。

 ここで、けたたましい「サイレン」が鳴って何事かと思いましたが、正午を告げるサイレンでした

 旧静内駅前からここ元静内まで、「約2時間も」サイクリングしていたことになります。

 

写真28

28.その後、旧静内町と旧三石町(平成18年に両町が合併して現在の新ひだか町)との境を流れる『布辻(ぶし)川』を渡ります。

 振興局の史料によると、冬の凍結の音により、又は河童が出ることにより、「同河川名」になったとのことです。

 

写真29

29.さて、ようやく「ミツイシ」の中心街に到着。

 6月26日にニイカップを出発した「忠敬氏測量隊」は、当地まで測量して宿泊、翌27日も当地で天体観測等を行っています。

 なお、私は、ここで休憩も兼ねて「みついし牛」の料理店に入ろうとするも、何と本日、日曜日は定休日とのこと。

 

写真30

30.本シリーズ「第9章の三石編」では、三石羊羹を先に食べてお腹が一杯となり、当牛を食べるのを断念、また、「第18章の東京近郊編」では、クライマックスのどさんこプラザ有楽町店で自分の財布の都合というよりも、三品も一緒に銀座で写真撮影が出来ないため購入を断念した「みついし牛」。

 三たび当牛を食べるのを断念し、結局、この日の私の昼食として、大正元年創業の「三石羊羹」を太平洋を眺めながらいただくことに・・・・

 

写真31

31.その後、『旧日高三石駅』で記念撮影。

 余談になりますが、この駅には、日高地方に縁もゆかりもなかった私が札幌在住時、冬の札幌は太陽が姿を現すことがほとんどないため、「列車内での日光浴・海を眺める・読書」の3つを目的に、札幌から日帰りで何度も訪れていた駅です。

(約2千円の「JRフリー切符」を利用し、多くは終点の様似まで乗車していました。)

写真32

32.平成十年代に、当時の日高支庁へ出張した際、「浦河駅周辺」はコンビニが全く無いのを知り(現在は「7のコンビニ」がありますが)、当駅か様似駅近くの「オレンジ色のコンビニ」で食料調達をしていました。

 なお、JR日高線から「三石市街や様似市街」を眺めたのは、今でも記憶に残っていますが、「浦河市街」は全く記憶に残っておらず、今となって、浦河中心街付近の列車はトンネルを通過していたと知った次第です。

写真33

33.さて、「忠敬氏測量隊」は6月28日にミツイシを出発し、ムクチ(現浦河)へと向かいます。

 私も「三石川」を渡って、ひたすら東へとサイクリング。

 

写真34

34.三石以東の太平洋沿岸は、崖が迫っているため、JR日高線は内陸を走っていましたが、「そんな事情」も知らずに昔、同線に乗っていた私は、海が見られずにつまらならないと思っていました。

写真35

35.そして、ようやく『道の駅みついし』前を通過。

 奥にある温泉宿泊施設でも「みついし牛」をいただくことが出来ますが、三石羊羹でお腹を満たした私は先を急ぐことに。

写真36

36.その後、目の前に「浦河町浜荻伏の漁港」が見えてきました。

 この時点で私の足はパンパンに張り、「ちょっとの下り坂」でも大変有り難く感じます。

写真37

37.そして、『ウラカワ(現浦河町荻伏)』に到着、「忠敬氏測量隊」はここで中食をとっています。

 なお、奥に見える「日高山脈」は、既に冠雪していました。

写真38

38.当地を流れる「元浦川」の名前の由来の通り、元来のウラカワは当地であったものの、振興局の史料によると、当地にあった運上屋を1799年に「ムクチ(現浦河)」へ移し、幕府の出先機関の会所としたため、現在の浦河は、「向別(むこうべつ)川」付近となっています。

写真39

39.さらに、太平洋沿岸を【東進】すると、はるか先(写真右側)にようやく私の本日の目的地、「ムクチ(現浦河)」の街が見えてきました。

 「まだまだ遠い・・・・」

写真40

40.現静内~現浦河間の距離は約40km位であり、「自転車で約4時間位」と甘く見込んでいましたが、猛烈な向かい風に見舞われるのは想定外であり、太平洋の西方に夕日が沈んでいきます。

写真41

41.そして、現静内から出発して約6時間半、ようやく「ムクチ(現浦河)」の入口付近に到着。

 「忠敬氏測量隊」も、6月28日に当地で宿泊しています。

 なお、奥に見える建物は、『某広域自治体の庁舎』です。

写真42

42.さて、近くにある『旧浦河駅』前で記念撮影。

 1日に自転車を約40km漕ぐというのは、間違いなく私の人生の中の「バッケンレコード(最長不倒距離)」です。

 ここで「ビールで乾杯」と行きたいところですが、私にはまだこの日にやり残したことが・・・・

写真43

43.旧静内駅前に駐車している車を回収しに、「同駅前行きのバス」に乗り、西へ引き返します。

 なお、運賃は2千円位かかるだろうと思っていましたが、千円以下であった一方、乗客は荻伏以西は「私一人」だけでした・・・・

 私の全くの個人的な考えですが、空気輸送をする位なら、「乗り降り自由の安いフリー切符」を販売して、観光客を呼び込めば良いのにと思います(現在はコロナ禍ですが・・・・)。

『Ⅴ ムクチ→ホロイズミ(現えりも本町) 【44~67】』

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【参考:北海道日高振興局管内の地図】

写真44

44.さて数日後、西にあった低気圧が東へと移動し、この日は「見事な西風(追い風)」です。

 また、この日はこれまでと異なり、浦河の自宅から自転車で出発、旧浦河駅の東側にある「浦河中心街」を通過します。

写真45

45.その後、『日高幌別川』を渡りますが、新たな歩道の新設工事が行われているようでした。

 余談になりますが、一昔前は、多くの若者達がオートバイに乗り、通称「ミツバチ族」と称されて北海道中を旅行していましたが、現在はほとんど見かけず、オートバイに乗っているのは中年層ばかりです。

 若者達の人口減少や金銭的困難のためだと思われますが、代わりに自転車に乗って日高沿岸を「サイクリング」している若者の姿を多数見かけるので、このような工事は、安全のためにとても良いことだと思います。

写真46

46.そして、シャマニ(現様似)の入口の『塩釜トンネル』を通過。

 振興局の史料によると、名前の通り1800年から幕府が当地で海水を釜で煮詰め、「製塩」を始めたとのことです。

 なお、現在、札幌方面から日高自動車道を通らずに、国道で襟裳岬へと向かう場合、ここが「初めて通るトンネル」となります。

写真47

47.途中、夏には海水浴客やキャンプ客で賑わう『親子岩ふれ愛ビーチ』で記念撮影。

写真48

48.その後、エンルム岬の麓にある『様似会所跡』を訪れます。

写真49

49.上の写真は、「当会所跡の説明看板」です。

 当地以東は断崖絶壁の連続のため、当地が東蝦夷地の「調査の拠点」とされました。

 「忠敬氏測量隊」は6月29日に当地で宿泊、翌7月1日も宿泊しています。

 ここで測量隊一行は、様似会所初代責任者であり、様似山道開削の現場監督を務めた「中村小市郎氏」所有の蝦夷地大図を一見したとのことです。

写真50

50.なお、「様似中心街」は、戦後しばらくはエンルム岬付近であったものの、その後に様似川の東側の平地が広いエリアへ移っています。

 写真の奥にある山は、登山等で有名な「アポイ岳」であり、どことなく雰囲気がアルプスの麓にある街のようです。

 

写真51

51.そして、JR日高線の終点であった『旧様似駅』で記念撮影。

 余談になりますが、私は当駅には何回も訪れたことがあり、古くは学生時代に静内花見&襟裳岬観光のため、友人5人で「当駅前にあった旅館」に泊まったことを思い出します。

 ちなみに、別の機会のサークルの合宿で、「静内駅前の実在の旅館」にも泊まったこともあります。

写真52

52.なお、当駅の北側には福祉施設等があるためか、「駅近くの歩道」は南北通行自由となっていました。

写真53

53.さて、「忠敬氏測量隊」は7月2日にシャマニを出発し、ホロイズミ(現えりも本町)へと向かいます。

 私もこれから、ひたすら太平洋沿岸を【東進】することに。

写真54

54.いよいよ断崖絶壁が迫って来て、このようなことを言うと開発局等関係者の方に叱られるかもしれませんが、当地付近は「ごく稀に・・・・」、太平洋の荒波が岸壁を乗り越え、国道に降りかかることがあります。

 この日は大変な強風だったので、「思いっきり打ち上がる波」を写真撮影しようと思っていたのですが、残念ながら?海は比較的穏やかです。

 そもそもそんな波がきたら、私自身が「びしょ濡れ」になってしまいます・・・・

写真55

55.その後、東蝦夷地最大の交通の難所であった『日高耶馬溪』を通ります。

 江戸幕府により、1799年に「様似山道」が開削されていますが、振興局の史料によると、当初の山道は粗末で遠回り・高低曲折もはなはだしかったとのことで、「忠敬氏測量隊」も当地付近で大変苦労したようです。

 なお、私は本シリーズ「第19章の世界ジオパークの鼓動編」で当地付近を歩いていますが、今回は自転車なので、前回よりはかなり楽だと感じたところです。

写真56

56.一方、「忠敬氏測量隊」は、草履も破け、素足でホロイズミ(現えりも本町)へ向かったようですが、ホロイズミからの出迎えの提灯を見たときには、同氏の日記には「地獄に仏」だったとの記述があります。

 私は、同氏の日記を日高地方の部分しか読んでいませんが、同氏を取り扱うHPにも、この時の苦しさが特出しされており、足かけ17年にわたる測量の中でも、「最も苦しい思いをした所」ではなかったかと思われます。

 さて、前方に「ホロイズミ(現えりも本町)」の街が見えて来ましたが、一方で、追い風も一層強くなってきました。

 なお、この日のえりも町の天気予報は、「晴れ、西北西の風約17m」とのことで、えりも本町ではなく、全国屈指の強風地帯の「襟裳岬」の天気予報ではないかと疑いたくなりましたが、東南東へと向かう私にとっては、願ってもないジャストミートの猛烈な追い風です。

写真57

57.その後、JR北海道バスの通称『えりも駅』に到着。

 数日前、現静内~現浦河間の約40kmを約6時間半かけてサイクリングした私ですが、ほぼ当距離の現浦河~現えりも本町間は、猛烈な追い風のため「約3時間半」で着いてしまいました。

 なお、「忠敬氏測量隊」は7月2日に当地で宿泊、翌3日も宿泊しています。

 その後、襟裳岬までは辿り着けないと判断したのか、江戸幕府により1799年に開削された「猿留(さるる)山道」へ回り、サルル(現日勝目黒)へと向かっています。

 ちなみに、襟裳岬付近の測量は、後に「間宮林蔵氏」が行い、大日本沿海輿地全図が完成したとされています。

写真58

58.さて、私の当初の予定は、当地で「あとは頼んだ、間宮さん」とし、以上で終了とする予定でしたが、この時点でまだ正午です。

 なお、現在、日勝目黒へ行くには、道内で一番長い全長約5kmの「えりも黄金トンネル」を通る必要がありますが、同トンネルの歩道部分は大変狭く危険なため、当初から「サルル(現日勝目黒)」まで向かうつもりはありませんでした。

 その代わり、これ以降は間宮氏の足跡を辿るとして、「襟裳岬」へ向かうことも考えられますが、その決断は・・・・

写真59

59.「襟裳岬へGO!」

 絶好の「猛烈な追い風」が吹いており、この機会を逃すことなどあり得ません。

 「忠敬氏測量隊」は、左側の道の東の方へ向かったことになりますが、これから私は、右側の道の襟裳岬に向けて、南の方へサイクリングします。

写真60

60.途中、猛烈な風により大活躍している「風車群」が見えました。

写真61

61.しかし、えりも本町以南の道は「アップダウンの連続」となり、やはり苦戦となります。

写真62

62.その後、ようやく『航空自衛隊のレーダー基地』の前を通過。

 なお、当地付近にえりも町名産の「短角牛の焼肉屋」があり、私は一度行って見たいと思っていた所ですが、今後、何のアクシデントがあるか分からないので、先を急ぐことに。

写真63

63.レーダー基地を過ぎると、後は襟裳岬へ向けて「直線をラストスパート」となりますが、進路が【東南東進】から【南進】へと変わったため、猛烈な追い風が猛烈な横風となり、風にあおられて中々自転車を漕ぐことが出来ません。

写真64

64.その後、ようやく『襟裳岬』の駐車場が見えてきました。

 現浦河~襟裳岬間の約53kmを1日で自転車を漕ぐというのは、私の人生の中の「バッケンレコード(最長不倒距離)の更新」です(猛烈な追い風による参考記録・・・・)。

写真65

65.さて、出来れば襟裳岬をバックに「自転車を記念撮影」したいところですが、当地付近は国定公園となっており(近く国立公園化の予定)、自転車は乗り入れ禁止のようで、勝手なことをすると、公園管理の行政当局(私の所属課)に叱られてしまいます。

 しかし、それ以前の問題として、当駐車場に来ると風速が倍増し、猛烈な台風に襲われているようで、更に風以上につらいのは「寒さ」であり、そもそも私は軽装(新冠以降はずっと汗だくの状態)だったので、1分でも屋外にいると凍死しそうで、当地でこんな経験をするのは初めてです。

写真66

66.結局「襟裳岬」は、駐車場から地下回廊で結ばれている『風の館』という施設の中から、その絶景を眺めることに・・・・

写真67

67.最後に、鉛のように重たい約20kgの「折りたたんだ自転車」が、ずれ動くほどの猛烈な風の中、忠敬氏の日記にも記述があった、まさに「地獄に仏」と思われる様似行きのバスに乗り、今回のサイクリングは終了です。

【以上、サイクリング距離 推定約100km】

(巻末1)「【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカに係るポータルサイト(第1章~第29章)!」

★第1章~第5章 (2020年10月~2021年10月)

1~5 (PNG 53.3KB)

二風谷写真

様似写真

浦河写真

静内写真

イザベラ写真

★第6章~第10章 (2021年10月~11月)

6~10 (PNG 50.1KB)

新冠写真

襟裳岬写真

北海道開拓の村写真

三石写真

荻伏・東静内写真

★第11章~第15章 (2021年11月~2022年8月)

11~15 (PNG 61.5KB)

日高市写真

オバケ桜写真

山女魚写真

14章 (JPG 42.3KB)

15章 (JPG 45.3KB)

★第16章~第20章 (2022年8月~10月)

16~20 (PNG 67.7KB)

16章 (JPG 43.8KB)

17章 (JPG 47KB)

18章 (JPG 50.3KB)

19章 (JPG 46.3KB)

20章 (JPG 30KB)

★第21章~第25章 (2022年11月~12月)

21~25 (PNG 50.8KB)

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23章 (JPG 42.2KB)

24章 (JPG 46.1KB)

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★第26章~第29章 (2022年12月~2023年3月)

26~29 (PNG 124KB)

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(超一括要約版)日高文化歴史散歩~★ブラ・ラブヒダカ(第1~29章:各章5コマ)!

ブララブヒダカ写真

(巻末2)「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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