★日高文化歴史散歩 「第20章 松浦武四郎の足跡を辿る 秋の日高内陸探査記編 【1~66】!」 2022年(令和4年)10月下旬

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【全体のイメージ】

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【参考:北海道日高振興局管内の7町の地図】

『Ⅰ 松浦武四郎とは 【1~8】』

写真1

1.上の写真は、平取町二風谷の「歴史の散歩道」にある、偉人9人を讃える記念碑の一つ「松浦武四郎氏」のものです。

 同碑には、同氏の平取町に関連する「説明書き」があります。

写真2

2.私は、にわか勉強で、同氏に関する書籍を少しだけ読み、とても多才な人だと感じた一方、「同氏を端的に説明する」のが、かえって難しくなったと感じ、一層研究が必要だと思った次第です。

 しかし、おおよそ「次のような人」だったと思われます。

 1818年、現在の『三重県松坂市』生まれ。 同地は伊勢神宮への旅人の通り道であり、同氏も旅人に触発されて若い頃から「全国を旅行」。 26歳の時に長崎で「蝦夷地がロシアに狙われている」と聞き、危機を打開しなければとの思いから28歳から41歳まで「蝦夷地を計六回探査」。 当時知られていなかった「蝦夷地の内陸」までを明らかにする。 そして探査の結果を「書籍や地図」にし、多数刊行して随一の蝦夷地通と知られるようになる。 また「アイヌ民族」の人口激減からその命と文化を守るのが大切だと訴える。 明治維新後に開拓使が「北海道名」・国名・郡名を選定する際も大きな影響を与えた人。

写真3

3.さて、蝦夷地の六回の探査は、最初の三回は「憂国の志士」として、後の三回は「幕府の役人」として行い、上の図は、アバウトで恐縮ですが「第一回目~第三回目の足跡」です。

 「赤線」が1845年の第一回目、「主に東蝦夷地(松前藩の東)の海岸線」を探査。

 「青線」が1846年の第二回目、「主に西蝦夷地(松前藩の西)と南樺太の海岸線」を探査。

 「緑線」が1849年の第三回目、現在の様似町で風を待ち「主に舟で現在の北方領土」を探査。

 この計三回の探査記録を「蝦夷日誌」として刊行、1853年のペリーの黒船来航後に当時の水戸藩主の徳川斉昭に献上し、その後に江戸幕府にも献上して幕府の役人となります。

写真4

4.上の図は、「第四回目と第五回目の足跡」です。

 1856年に勤務先の箱館奉行所に着任して調査隊の一行に加わり、「赤線」の通り、「主に蝦夷地及び南樺太の海岸線」を探査、その記録を「竹四郎廻浦(かいほ)日記」として刊行。

 1857年に「青線」の通り、「主に石狩川や天塩川を内陸まで」探査、その記録を「丁己(ていし)東西蝦夷山川地理取調日誌」として刊行。

 

写真5

5.そして、上の図は、今回取り上げさせていただく「第六回目の足跡」です。

 1858年(安政5年)に「緑線」の通り、「蝦夷地のほぼ全ての海岸線・日高地方の河川・十勝道東の内陸部」を探査、翌年にその記録を「戊午(ぼご)東西蝦夷山川地理取調日誌」として刊行。

(以下、地名等は簡略化のため、「現在名」で記述させていただきます。)

写真6

6.上の図は、アバウトで恐縮ですが、第六回目の足跡のうち「日高地方の部分」です。

 まず、「黄緑線(往路)」の通り、おおよそ「鵡川以西 → 日高門別川を上流へ → 平取町貫気別・振内へ山越え → 沙流川を上流下流へ → 厚別川を上流へ → 新冠川を上流下流へ → 海岸線をえりも町日勝目黒」まで探査。

 その後、一旦「十勝内陸部」の探査へと向かいます。

 そして、「緑線(復路)」の通り、おおよそ「えりも町日勝目黒 → 豊似岳登山 → 様似川を上流へ → 日高幌別川を下流へ → 向別川を上流へ → 元浦川を下流へ → 鳧舞川を上流下流へ → 三石川を上流下流へ → 捫別川を上流へ → 静内川を上流下流へ → 鵡川以西」へと探査。

 さて、以上の行程を実際にウォーキングしたら、およそ数百kmにもおよび、「とっても良い運動」になると思われます。

写真7

7.しかし、普段運動不足で体力の無い私は、今回は、同氏の足跡の近くの舗装道路を、松浦武四郎と一緒にウォーキングするつもりで、「車」で移動することに・・・・

(なお、松浦氏も一部、「馬や舟」を利用しています。)

 なお、上の図は、同氏により1859年に刊行された「東西蝦夷山川地理取調図」のうちの日高地方の一部です(道が公開しております)。

 同図ではものすごく細かく「アイヌ語の地名」が記載、一方、日誌でもものすごく細かく「地名や人物名」が記載され、私は当初、両者を突合しようするも、途中で諦めました・・・・

写真8

8.上の写真は、以前撮影した、新ひだか町静内真歌のシャクシャイン記念館の前にある「松浦武四郎記念碑」です。

 松浦氏は、後年「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌」「十勝日誌」「久摺(くすり)日誌」「知床日誌」等の地域毎の日誌を一般向けに刊行しており、現在は、その多くが現代語訳で出版されていますが、残念ながら、日高地方を含む「東蝦夷日誌(以下、「日誌」といいます。)」の現代語訳だけありません・・・・

 従って、今回は、明治時代の雑誌に掲載されたとされる「簡約松浦武四郎自伝(以下、「自伝」といいます。)」が、現代語訳ではないものの(私は古文漢文が苦手です・・・・)、簡潔に記載されているので、自伝と日誌で日付の食い違いがありますが、以下の「日付」等は、自伝を元に記述したいと思います。

『Ⅱ 日高門別川・額平川・沙流川(往路①) 【9~22】』

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【再掲:第六回探査の日高管内足跡(往路は黄緑線、復路は緑線)】

写真9

9.以上、「前置き」が長くなり申し訳ございません。

 時は、遡ること1858年(安政5年)6月28日(旧暦)、当時の沙流(さる)会所があり、現在は日高町門別本町の東にある『門別稲荷神社』付近にやってきました。

 

写真10

10.近くには『日高門別川』が流れており、当地には約1ヶ月前の9月中旬、本シリーズ「第17章の日高門別編」で訪れていますが、その時には、また当地を訪れことになるとは思っていませんでした。

 これから、『日高門別川』の上流へと【北進】します。

 なお、日誌によれば、松浦氏は「アイヌの人達の案内人5人」を連れて出発しています。

写真11

11.日高町の「幾千世(いくちせ)・庫富(くらとみ)」と【北進】、平地がだんだん狭くなります。

 日誌では「川筋屈曲する故本川を見る事なく」とある一方、「山合に畑有、粟稗よく出来たり」とあります。

写真12

12.そして、「日高門別川」の上流付近に到着。

 日誌では「両岸絶壁也」とあり、ちょっと食い違いを感じます。

写真13

13.この日は、「日高町広富の首長宅」で宿泊。

 なお、上の写真は、『広富スキー場』の隣にある神社の境内です。

写真14

14.6月29日、日高町広富から山を越えて【北進】、『平取町貫気別(ぬきべつ)』に到着。

 この地は、沙流川の支流「額平川」と「貫気別川」が分岐する地です。

 

写真15

15.日誌では、この日に『額平川』の下流を舟で【西進】して探査したことになっています。

 その後、「平取町貫気別の首長宅」で宿泊。

写真16

16.また、自伝と異なり日誌では、この翌日に『貫気別川』の上流を【東進】して探査、「水流急にして上り難故舟を下ろし、余は上陸して「ヌカ平の川筋」に出たり」とあります。

 

写真17

17.一方、額平川の上流は、約4ヶ月前の6月上旬の「本シリーズ第13章の奥平取・山日高編」で、私は建設中の『平取ダム』を見学していましたが、現在は運用を開始しているとのことで、再度行ってみると、まるで「美瑛の青い池」を思わせる幻想的な風景が見えました。

写真18

18.7月1日(旧暦)、平取町貫気別から山を越えて【北進】、『平取町振内(ふれない)』付近に到着。

 日誌では、「地形南向畑多く(中略)蝦夷第一の土地なるべし。」とあります。

 

写真19

19.その後、「沙流川の上流」を舟で【北進】して探査、日誌では「大岩ぞくぞく川中に突出し甚危し。」とあります。

 なお、この日は、日誌では「上流で野宿」とありますが、自伝では「平取町振内付近の首長宅」で宿泊とあります。

写真20

20.7月2日、「沙流川の下流」を舟で下り【南進】、長知内(おさちない)・荷負(におい)・二風谷(にぶたに)と通り、途中、『荷負』の沙流川と額平川が合流する地点で、日誌では「人家も見へいささか夷地の心持はせざるなり。是より水勢大に遅く成たり。」とあります。

写真21

21.その後、平取本町で『義経神社』を参拝、なお、当時の神社は、写真の奥の山「ハヨピラ」にあったと思われます。

 ちなみに、「本シリーズ第5章のイザベラバード編」では、20年後の1878年(明治11年)に、イザベラバードが坂を何とかよじ登って本殿に向かった旨記述しました。

 しかしながら、同神社の境内の階段はそれ程急では無く、おかしいと思っていましたが、実は、明治11年当時も、「同神社はまだハヨピラにあったのでは」と、後になって知った次第です。

写真22

22.さて、この日は『平取町紫雲古津(しうんこつ)の首長宅』で宿泊、上の写真は、「紫雲古津大橋」から沙流川下流(南側)を撮影したものです。

 なお、自伝ではこの翌日の7月3日も、当地より少し上流の「平取町去場(さるば)の首長宅」で休んだことになっていますが、日誌では「沙流会所でオムシャ」が行われるので、そちらに向かったことになっています。

『Ⅲ 厚別川・新冠川・太平洋沿岸をえりも町へ(往路②) 【23~42】』

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【再掲:第六回探査の日高管内足跡(往路は黄緑線、復路は緑線)】

写真23

23.7月4日、まずは太平洋沿岸を「日高町厚賀」まで【東進】します。

 日誌では、途中の『波恵(はえ)川』について、約200年近く前のシャクシャインの戦いに登場する「オニビシ」に関する記述があります。

写真24

24.そして、厚賀市街の東を流れる『厚別川』の上流へ向けて、「アイヌの人達の案内人4人」を連れて馬で出発して【北進】、途中の新冠町東川で、新冠会所から来た「アイヌの人達の案内人3人」と合流、大勢で歩いて更に上流へと【北進】します。

 現在、『厚別川』は、日高町(旧門別町)と新冠町のほぼ境界となっていますが、江戸時代には「沙流場所」と「新冠場所」の両方の関与があったのだと思われます。

写真25

25.この日は「日高町正和(しょうわ)のアイヌ宅」で宿泊、なお、上の写真は『正和地域交流センター』です。

 ちなみに、この日の夜、自伝では「夜家の廻りへ熊度々来る。然れども犬多き故中々害はなし難し。」とあります。

写真26

26.7月5日、厚別川の東の支流『比宇川』の上流へと【東進】します。

 

写真27

27.舗装道路から見える「比宇川上流」の上限まで行くと、近くに新冠町の『太陽の森ディマシオ美術館』がありました。

 松浦武四郎は現在から約160年以上前、「ディマシオ美術館」付近を探査していることになります。

 

写真28

28.その後、山を東へ越えて『新冠川』の上流付近に到着、舟を借りて更に上流を探査しています。

 なお、自伝ではこの日は、「新冠町古岸付近のアイヌ宅」で宿泊となっています。

 

写真29

29.7月6日、「新冠川」を舟で【南進】して下ります。

 日誌では、「川幅大く成れども急なり。」とあります。

 

写真30

30.そして、「新冠会所」に到着します。

 

写真31

31.7月7日、「三石会所」まで【東進】して宿泊。

 なお、松浦氏は「1日に約70km」は歩いたと言われています。

写真32

32.7月8日、「様似会所」まで【東進】して宿泊。

 日誌には、1804年に建立された蝦夷三官寺『等澍院』に関する記述があります。

写真33

33.7月9日、「幌泉会所(現えりも本町)」まで【東進】して宿泊。

 日誌には、途中『日高耶馬溪』の上にあり、1799年に開削された「様似山道」に関する記述があります。

 

写真34

34.また、日高耶馬溪の東側の「幌満川」河口付近に、現在『和助地蔵尊』がありますが、日誌には、様似山道の開削に尽力した「斉藤和助氏」に関する記述があります。

写真35

35.そして、「幌泉会所」について、日誌では、上の写真のように『住吉神社』等を描写した挿絵の景観が掲載され、また、1799年にえりも町目黒まで開削された「猿留(さるる)山道」についての記述もあります。

写真36

36.7月10日、「アイヌの人達の案内人2人」を連れて「襟裳岬」へ向けて【東進】、日誌には、途中から馬が使えなくなり、「岩の上」を飛び跳ねて行き、その後、「崖の上」を歩く旨の記述があります。

写真37

37.そして、『襟裳岬』に到着。

 日誌には「本名ヲンネエンルンと云。ヲンネは大の大なるを云、エンルンは岬也。(中略)其中に小社を立たり。」とあります。

 小社とは、現在の「襟裳神社」のことです。

写真38

38.さらに、日誌には「ソウヤ(庶野)・トセツサキ・遠く阿寒の両岳を眺み、(中略)其風景実に奇と云べし。」とあります。

写真39

39.その後、太平洋沿岸を【北進】、上の写真は、百人浜にある『一石一字塔』ですが、百人浜について日誌には、「昔し一夜の時化(しけ)に大船多く打上、水夫百餘人死せしを埋めしとも、又住吉幌泉土人十勝土人と戦て、其死骸を埋めしとも言り。」とあります。

 

写真40

40.『えりも町庶野』を過ぎて更に【北進】、途中から「舟」でえりも町日勝目黒へ向かいます。

写真41

41.そして、猿留(さるる)川を越えて、『えりも町目黒』で宿泊。

写真42

42.7月11日、「十勝内陸部」の探査のために、一旦、広尾町へ向かいます。

 その後、十勝平野を「広尾 → 大樹 → 札内 → 芽室 → 音更 → 十勝川河口」と時計回りに探査し、自伝では、7月20日にえりも町目黒に戻ってきています。

『Ⅳ 豊似岳・様似川・日高幌別川・向別川・元浦川(復路①) 【43~53】』

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【再掲:第六回探査の日高管内足跡(往路は黄緑線、復路は緑線)】

写真43

43.7月21日、1799年に開削された「猿留(さるる)山道」を通り、現在はハート型で有名となっている『豊似湖』を訪れていますが、同湖は砂利道で10km以上も山奥にあるため、私は次の機会に訪れたいと思います。

 日誌には『豊似湖』について、「カムイトウ(神湖)と云、其深知る者なし。水色如藍、山の懐に在る故、周囲高けれども其水増減なく、又流口もなし。くすりなる摩周岳の湖と同じ。また水面一枚の落葉を浮むる事なし。実に不思議の湖也。」とあります。

 ちなみに上の写真は、えりも町目黒市街にあった「宣伝用の看板」ですが、えりも町130年記念誌年表では、「2008年(平成21年)に民放テレビ番組「ナニコレ珍百景」で豊似湖が全国へ紹介される」とあります。

写真44

44.豊似湖を訪れた後、日高山脈の最南端にある標高1105mの『豊似岳』を登山。

 日誌には「頂上の風景の良さ」の記述があり、私も是非その風景を眺めたいと思いましたが、故あって私は、「アポイ岳」すら登山したことがありません・・・・

 なお、この日は「幌泉会所」まで戻ります。

写真45

45.7月22日、太平洋沿岸を【西進】して「様似会所」に到着。

 7月23日、様似市街を流れる『様似川』の上流へ向けて、「アイヌの人達の案内人3人」を連れて馬で出発して【北進】します。

写真46

46.上の写真は、様似川上流にある治水用の『様似ダム』です。

 この後、山を越えて【西進】し、「浦河町西舎(にしちゃ)」へ向かいます。

写真47

47.『日高幌別川』まで来て、自伝によれば、この日は「浦河会所」まで行き宿泊。

写真48

48.自伝によれば、7月24日・25日・26日と、風雨もあってか「浦河会所」にとどまっています。

写真49

49.7月27日、浦河市街を流れる『向別(むこうべつ)川』の上流へ向けて、「アイヌの人達の案内人3人」を連れて馬で出発して【北進】、途中から歩きます。

写真50

50.上の写真は、向別川上流にある治水用の『浦河ダム』北側の「うらら湖」です。

 この後、山を越えて【西進】し、「元浦川筋」へ向かいます。

 

写真51

51.上の写真は、舗装道路の先端から少し砂利道に入った付近の『元浦川』の上流の様子です。

写真52

52.その後、『浦河町姉茶(あねちゃ)付近の首長宅』で宿泊。

写真53

53.7月28日、「三石会所」まで【西進】して宿泊、翌日29日も「三石会所」にとどまっています。

『Ⅴ 鳧舞川・三石川・捫別川・静内川 (復路②) 【54~66】』

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【再掲:第六回探査の日高管内足跡(往路は黄緑線、復路は緑線)】

写真54

54.8月1日(旧暦)、現在の三石昆布温泉近くを流れる『鳧舞(けりまい)川』の上流へ向けて、「アイヌの人達の案内人3人」を連れて【北進】、途中の「新ひだか町三石本桐」付近で休憩。

 日誌には『鳧舞川』について、「流れ屈曲遅流なり。」とあります。

写真55

55.上の写真は、舗装道路の先端から少し砂利道に入った付近の「鳧舞川上流」の様子です。

 この日は、「三石会所」まで戻り宿泊。

写真56

56.8月2日、三石市街の東を流れる「三石川」の上流へ向けて、「アイヌの人達の案内人3人」を連れて【北進】。

 日誌には、途中の『蓬莱山』について、アイヌの伝説に関する記述があります。

写真57

57.上の写真は、「三石川上流」の2つの川が合流する地点の写真です。

 右側(東側)の川を遡ると「三石ダム」がありますが、松浦氏は、左側の川を少し奥まで探査しているようです。

 自伝によれば、この日も「三石会所」まで戻り宿泊。

写真58

58.8月3日、太平洋沿岸を【西進】して、『静内会所(現在の元静内)』で宿泊。

写真59

59.8月4日、「アイヌの人達の案内人3~4人」を連れて、新ひだか町東静内へと【西進】、ここから『捫別川』上流へと【北進】します。

 なお、当地は以前、「モンベツ」との地名であったものの、道内各地にあって紛らわしいので、「東静内」へと地名変更した旨、何かの書籍で読んだのを記憶しています。

写真60

60.上の写真は、「捫別川上流付近」の写真です。

 ここから山を越えて【西進】し、「新ひだか町静内農屋(のや)」へ向かいます。

写真61

61.峠を越えると、「静内平野?」を一望出来る展望台がありました。

 その後、『新ひだか町静内農屋付近のアイヌ宅』で宿泊。

写真62

62.8月5日、舟で『静内川』の上流へと【北進】し、山奥へと探査に出ます。

 日誌には、「いかにも急流なり。」とあります。

写真63

63.新ひだか町静内双川まで【北進】し、まずは、西側の支流の『シュンベツ川』を探査。

 日誌には「いかにも仙境に入ル心地」とあり、「往昔(文化六年(1809年))間宮様もここにて船を岩間に挟みつぶして、荷物も刀も流し、漸々命を助く。」とあり、さらに「往古の金鉱跡多し。」と、おそらく約200年近く前の金鉱に関する記述があります。

写真64

64.その後、東側の「静内川本流の上流」を探査。

 現在、一般車両は通常だと、道道静内中札内線で『静内ダム』まで行くことが出来ますが、この時期は道路工事中であったため、同ダムまで行くことが出来ず、上の写真は以前撮影したものです。

 日誌では、「岩太く尖り、中々上り難き故、ここにて舟を繋ぎ置、岩上飛越はね越し上る。」とあります。

 この日も「新ひだか町静内農屋付近のアイヌ宅」まで戻り宿泊。

写真65

65.8月6日、「静内番屋」で休んだのち、新冠会所で宿泊。

 日誌には、約200年近く前、現在からだと約350年以上前の『シャクシャインの戦いの城跡』についての記述があります。

 なお、私は今回の第20章の最後に訪れた、この『シャクシャインのチャシ』を見て、映画「タイタニック」の最後に出てくる「ニューヨークの自由の女神」を見た時のような、時空を越えた感覚を覚えました。

写真66

66.その後、松浦武四郎は太平洋沿岸をひたすら【西進】し、8月下旬に「箱館」に帰着し、第六回目の探査を終了します。

 翌年、同氏は上記7の通り「東西蝦夷山川地理取調図」を刊行、同図には八千以上の地名が記載されており、その約20%は、日高地方のものとのことです。

 計六回の探査の足跡を見ても、一番入念に探査をしているのは「日高地方」だと思われます。

 それはこの地方が、アイヌの古都とされるとともに、「冬温暖少雪」で、雰囲気がどこか本州に似ており、同氏がこの地方に可能性を感じたからなのではないかと、私は思います。

 なお、この地方を蝦夷地名の候補にもなった「日高国」と名付けたのも、松浦武四郎氏です。

【以上、松浦武四郎の第六回目探査の日高管内ウォーキング距離 推定約600km以上】

(巻末1)「【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカに係るポータルサイト(第1章~第29章)!」

★第1章~第5章 (2020年10月~2021年10月)

1~5 (PNG 53.3KB)

二風谷写真

様似写真

浦河写真

静内写真

イザベラ写真

★第6章~第10章 (2021年10月~11月)

6~10 (PNG 50.1KB)

新冠写真

襟裳岬写真

北海道開拓の村写真

三石写真

荻伏・東静内写真

★第11章~第15章 (2021年11月~2022年8月)

11~15 (PNG 61.5KB)

日高市写真

オバケ桜写真

山女魚写真

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15章 (JPG 45.3KB)

★第16章~第20章 (2022年8月~10月)

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★第21章~第25章 (2022年11月~12月)

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★第26章~第29章 (2022年12月~2023年3月)

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(超一括要約版)日高文化歴史散歩~★ブラ・ラブヒダカ(第1~29章:各章5コマ)!

ブララブヒダカ写真

(巻末2)「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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