★日高文化歴史散歩 「第5章 イザベラ・バード 奥地紀行編 【1~62】!」 2021年(令和3年)10月上旬

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【全体のイメージ】

日高地方

【参考:北海道日高振興局管内の地図】

『Ⅰ 旧JR富川駅 【1~5】』

写真1

1.今日は、日高管内の西端にあり、札幌や苫小牧等から最も近い日高町(平成18年合併前の旧門別町)の「富川市街」にやってきました。

 札幌から富川までは、高速道路を利用すれば、「約1時間」で着くことができます。

(逆に振興局所在地の浦河から富川までは、一部、日高自動車道を利用しても「1時間半以上」かかります。)

 今日、富川に来たのは、イギリスの女性探検家で世界中を旅行した「イザベラ・バード氏」が、この富川から北隣の平取町まで、1878年(明治11年)に訪れたのにちなんで、「平取町までの約15kmのフットパス」が整備されているのを、最近になって知ったからです。

 なお、上の写真は、本年4月に廃止された旧JR日高線の『旧富川駅』です。

写真2

2.なお、この富川の地は、かつて「佐瑠太(さるふと)」と呼ばれていました。

 富川(佐瑠太)まで鉄道が延びたのは1911年(明治44年)であり、苫小牧に製紙工場を立地した「王子製紙」が中心となり、原木輸送を目的に鉄道を敷設し、後の日高線の一部となりました。

写真3

3.更に王子製紙は、原木輸送のため、富川から内陸の平取まで、1921年(大正10年)に「沙流軌道」を敷設しましたが、貨物自動車の増加により、1951年(昭和26年)に廃止されています。

写真4

4.さて、旧富川駅から【北進】すると、「商業施設」が建ち並ぶ、国道235号線(優駿浪漫街道)に出ます。

 なお、旧門別町内には「大きく二つの市街地」があり、この富川から約5kmほど東に、門別本町があります。

 過去の歴史を見ると、当初の「江戸幕府の会所」は富川に置かれるも、焼失により1805年(文化2年)に門別本町に移され、「明治時代の駅逓所」も引き続き門別本町に置かれるも、1877年(明治10年)に富川に移されたという、大変複雑なものとなっています。

 現在は、「日高町(旧門別町)役場庁舎」は門別本町にありますが、市街地の大きさは富川の方が上、というのが実状です。

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5.国道を【東進】して、日高管内一長い河川の、沙流(さる)川に架橋されている「沙流川橋」を渡ります。

 なお、この橋は、苫小牧からの国道が、高江(新冠)まで延長された際、1893年(明治26年)に「佐瑠太橋」として架橋された歴史を持ちます。

『Ⅱ フットパス前半 【6~25】』

写真6

6.沙流川を渡るとすぐに、フットパスのスタート地点となっている『門別図書館郷土資料館』に着きます。

 「斬新な外観」で、内部も真新しい施設です。

 私は、この施設には何度も訪れたことがありましたが、まさか「フットパスのスタート地点」になっているとは、最近まで夢にも思っていませんでした・・・・

写真7

7.施設の左手(西側)の奥に、「イザベラ・バードの歩いた道の解説板」とフットパスの矢印案内板があります。

写真8

8.看板の上側には、「フットパスの概略図」が書かれています。

 当地をスタートし、最初、沙流川の東側(右側)を【北進】したのち、およそ中間地点の「紫雲古津(しうんこつ)大橋」という橋を西(左)へ渡り、今度は沙流川の西側(左側)を【北進】し、「平取市街」を抜けて、最後にイザベラ・バードも訪れた「義経神社(祭神は誰もが知る源義経)」がゴールとなっています。

写真9

9.看板の下側には、「イザベラ・バード氏の紹介」が書かれています。

 看板に記載はありませんが、同氏は、1878年(明治11年)の開国間もない日本で、日本人通訳1人を連れて、「横浜 → 東京 → 日光 → 会津 → 新潟 → 山形 → 横手 → 青森 → 函館 → 森 →(航路)→ 室蘭 → 苫小牧 → 富川 → 平取(当時アイヌの人達が最も多く暮らしていた地域)→ 復路(今の長万部経由)」と、当時の外国人女性としては偉業とも言える旅行をしました。

 彼女の旅行記が、日本語訳「日本奥地紀行」として出版されており、私は道内の部分だけ読みましたが、当時の和人及びアイヌの人達の生活習慣等について、見たこと・思ったこと・感じたことを、単刀直入に平易な文章で詳しく書かれており、とても参考になる書籍だと思いました。

写真10

10.看板の隣には、フットパスの「矢印案内板(スタート)」があります。

 私は、事前に「フットパスのマップ」を用意していましたが、同マップによれば、矢印案内板は全部で28箇所あるとのことです。

写真11

11.ここで車を駐車して、いよいよ「約15kmのウォーキング」をスタートします!

 普段運動不足で体力の無い私は、例えば、札駅~すすきの間のチカホ空間を往復しただけで体がボロボロになるのですが、約15kmなら何とか辿り着けると思い、まずは「沙流川」に向かって【西進】します。

写真12

12.すぐに、沙流川東側の堤防に着き、「堤防上の小道」を【北進】します。

写真13

13.南側を振り返ると、先ほど渡った「沙流川橋」が見えます。

 なお、私が初めて日高管内を訪れたのは、まだ、日高自動車道など全くない「1990年代」です。

 苫小牧から太平洋沿いの国道235号線を走る車に同乗したのですが、日高管内の地理をほとんど知らなかった当時の記憶として残っているのは、太平洋沿いに中心市街が所々に点在し、「その近くには必ず大きな川と橋がある」というものです。

 特に「沙流川橋」は、緑のガードで囲まれた巨大橋として、今でも記憶に残っています。

写真14

14.ちなみに、左手(東側)には「町営富川スケートリンク」がありました。

 この後【東進】して、「堤防」を離れます。

写真15

15.「町道福満8号線」に合流して、【北進】します。

写真16

16.町道の両側には、まさに日高と言うべき「軽種馬牧場の風景」が広がっていました。

 日高管内の軽種馬牧場の見所として、真っ先に思いつくのは新冠のサラブレット銀座ですが、ここは「富川版(門別版)サラブレット銀座」ではないかと思いました。

写真17

17.ただ、本家のサラブレット銀座と違うのは、本家の馬は人を見慣れているのか、近づいても全く無視されることが多いのですが、この付近の馬は人に好奇心を抱くのか、「馬の方から」こちらに近づいてきます。

写真18

18.その後、「日高自動車道」の上を横断して、【北進】し続けます。

写真19

19.なお、明治11年当時のイザベラ・バードも、この付近を「馬」に乗って通ったことになっています。

 しかし、当時の旅行記では、あたりは森林で、「道はほとんど整備されておらず」、草が乗馬した人の頭まで生えている上、馬が沼地にはまって抜け出せなくなったり、坂を登り切れずにひっくり返ったり等の散々な目にあった旨記録されています。

 現在の風景とは、まさに「隔世の感」があります。

写真20

20.途中、右手(東側)に大きな「馬のトレーニングセンター」が見えましたが、残念ながら馬は走っていませんでした。

写真21

21.『福満地区』という付近の三叉路を更に【北進】し続けます。

 なお、かなり昔、私は「日高ケンタッキーファーム」という観光牧場を訪れたことがあり、緑の芝生が広がっていたこと・魚釣りをしたこと・その魚を塩焼きにして食べたことだけは覚えています。

 しかしながら、今となっては日高管内の「何処にあったのか」は、分からないままでした。

 先日、ネットで調べたところ、この「福満地区」にあったことが分かったのですが、同牧場はバブル崩壊後に閉鎖になったとのことです。

 道内には、同じように「ミニテーマパーク」がバブル崩壊後に閉鎖された例がたくさんありますが、当時、日高自動車道が開通していたとしても、同じ運命を辿っていたのかどうかと思慮します。

写真22

22.さて、目の前に『紫雲古津(しうんこつ)大橋』が見えてきました。

 この橋は、遠方から見ると、高速道路と見間違える位の「立派な高架橋」であるため、私は以前から知っていました。

 橋の近くに「イザベラ・バードが歩いた道の解説板」が建てられています。

写真23

23.看板には、イザベラ・バードがこの付近を「渡船」したと書かれています。

 なお、振興局の史料によると、その後の1903(明治36年)に「渡船場」が設けられたとのことです。

写真24

24.橋の上から「沙流川の南側」を眺めます。

 右手(西側)は、日高管内有数の米どころであり、古くは1874年(明治7年)に互野留作という方が、現在の日高町平賀地区で、日高で初めて稲作を試みたとして「日高水稲発祥の地」とされています。

 しかし、更に古くは1821年(文政4年)、現在の「様似町幌満地区」で水田を試み収穫したという史料もあります。

 なお、現在、北海道米と言えば「ななつぼし」が有名ですが、この付近でとれる「ななつぼし」を、JA門別では「馬舞米(ウマイベ)」というブランドで売り出していると、私は最近、当局の農務課の方から教わりました。

写真25

25.「沙流川の北側」を眺めると、最終目的地である平取市街が肉眼ではっきり見えます。

 なお、沙流川は「日勝峠付近」を源流とし、国道274号線(石勝樹海ロード)沿いを西へ流れ、途中、日高町日高地区付近で南へと向きを変え、太平洋まで注いでいます。

『Ⅲ フットパス後半 【26~42】』

写真26

26.橋を渡った後、今度は「沙流川西側」の堤防上の小道を【北進】します。

写真27

27.途中「休憩場」があり、ちょうど一休みしたかったので大助かりです。

写真28

28.目の前には「トマト栽培」のビニールハウスがありました。

 日高管内の方ならご存じの方も多いと思いますが、平取町はトマトの集荷量全道一であり、「ニシパの恋人」とのブランド名で売り出しています。

 なお、「ニシパ」とは、アイヌ語で長老・紳士・旦那という意味とのことです。

 また、平取町史でニシパの恋人の起源を辿ると、1986年(昭和61年)に「トマトジュースの名前」として、製造・販売を始めたとのことです。

写真29

29.また、ビニールハウスの隣には、日高管内では比較的珍しく「乳牛」が飼育されていました。

 なお、平取町の牛といえば、これもご存じの方が多いと思いますが、肉牛が「びらとり和牛」としてブランド化されています。

写真30

30.その後、更に【北進】し続けると、「矢印案内板が西側」を向いているので、ここで左折して【西進】します。

写真31

31.農道の先に「去場(さるば)」という集落があり、明治11年当時の沙流川沿いは、現在と異なり、アイヌの人達の集落(コタン)しかなかったようで、イザベラ・バードも同集落を訪れたとのことです。

写真32

32.さて、『去場生活館』の前を通って【北進】します。

 ちなみに、私が通った際は、建物の中から「ピアノの音色」が聞こえてきて、地元の方々が何かを鑑賞しているようでした。

写真33

33.更に【北進】すると、矢印案内板が「水田の農道」の方を向いおり、そのまま水田の中を歩きます。

写真34

34.途中、「稲刈り」をしているトラクターがありました(無人でしたが・・・・)。

写真35

35.その後、沙流川西側の「堤防上の小道」へと戻り、紫色の野花を観賞し、コオロギの鳴き声を聞きながら、田園地帯を更に【北進】し続けます。

 まさに「10月の秋を感じさせる風景」ですが、太陽の日差しの下でウォーキングをし続けて体温が上昇し、服装は半袖でも汗がにじんできます。

写真36

36.目の前に『荷菜(にな)大橋』が見えてきました。

 振興局の史料によると、1902年(明治35年)に当地付近に「渡船場」が設けられたとのことです。

写真37

37.ここで、矢印案内板のとおり左折し、「国道237号線」(沙流ユーカラ街道)へ向けて【西進】します。

 

写真38

38.ここで、やっと見覚えのある「国道237号線の風景」が見えてきました。

写真39

39.マップを見ると、近くに『JAびらとり直売店』があるとのことなので、寄り道することにします。

写真40

40.私は、生のトマトを食べるのは好きなので、「ニシパの恋人」をまるかじりするため、購入しようとしましたが、手が汚れているため諦めました。

写真41

41.その代わりに購入したのが、「ニシパの恋人トマトジュース 100円(税込)」!

 実は、私は「トマトジュース」が大の苦手で、今まで一度も口にしたことがなかったのですが、今回、思い切って一気に飲み干しました。

 思ったよりもいける感じで、「人生の苦手分野を一つ克服」したような爽快感を感じました。

写真42

42.さて、国道237号線を【北進】して、「平取市街」を目指します。

 なお、この道路は、北海道の海運の一大集積地となっている「苫小牧港」と道東等とを結ぶ役割を担っており、帯広・釧路等の各地のナンバーの大型貨物車が、頻繁に行き交う道路となっています。

『Ⅳ 平取市街 【43~51】』

写真43

43.平取市街に入ると「矢印案内板が西側」を向いており、これからフットパスは森林の中を通ることになっていますが、今回は「平取市街」を訪れるため、このまま直進します。

写真44

44.国道西側に『平取町役場庁舎』が見えてきました。

 日高管内7町の役場庁舎の中では「最も古く」、1965年(昭和40年)に竣工した建物です。

写真45

45.国道が2001年(平成13年)から「バイパス化」されているので、ここから国道を離れて、左側の中心市街の方へ向かいます。

写真46

46.中心市街に入ると、「JAびらとり」の建物があります。

 ニシパの恋人やびらとり和牛の「ブランド品」を持つ農協として、立派な建物です。

写真47

47.JAびらとりの東隣には、平取市街のランドマークタワーとも言える『ふれあいセンターびらとり』があります。

 町役場機能の一部の他、図書館他の「文教施設」が入っており、こちらも立派な建物です。

写真48

48.ふれあいセンターびらとりの北隣には、「料理店等」が並んでいます。

 当初、「昼食」は、フットパスのゴールの義経神社を訪れた後にとろうと思っていましたが、かなり疲れていたので、ここで一休みを兼ねて先に昼食をとることにしました。

写真49

49.最近、「ニシパの恋人ランチ」といういわゆるご当地グルメがあることを知り、当該ランチを提供するお店に入ります。

 ランチの説明書きを読むと、お肉は「びらとり和牛、平取産黒豚」のいずれかを使用し、「びらとりトマト又はその加工品」も使用、実際に提供する品は、お店によって様々であるものの、値段は全店で980円(税込)にするとのことです。

 また、6月~10月が「夏バージョン」、その後は「冬バージョン」に切り替えるとのことです。

 

写真50

50.さて、トマトと黒豚を天ぷらにしたおいしそうな「天ぷらそば」が出されてきました。

 しかし、何と驚いたことに、先ほどJA直売店で購入した「トマトジュース」が添えられています。

 このたび、自分が苦手とする「トマトジュース」を2度も飲むことになるとは、正直想定外でした。

写真51

51.「ニシパの恋人」からたくさんのエネルギーをいただいた後、最終目的地の義経神社に向かって、ラストウォークで【北進】し続けます。

 途中、イギリスの宣教師で、アイヌ文化の調査研究に携わった「ジョン・バチェラー氏」にちなんで設立された保育園の前を通り過ぎます。

『Ⅴ 義経神社 【52~62】』

写真52

52.そしていよいよ、フットパスのゴール地点である『義経神社』に到着!

写真53

53.なお、義経神社の北隣には、アイヌのあらゆる生活文化を教えた神様のオキクルカムイが降臨したと伝えられる『ハヨピラ』があります。

写真54

54.義経神社の鳥居の近くには、「解説版と矢印案内板(ゴール)」がありました。

写真55

55.解説版には、当時のアイヌの首長「ペンリウク氏」宅で、イザベラ・バードが1878年(明治11年)の(8月下旬の)数日間を過ごした旨が書かれています。

 その数日間を通じて、イザベラ・バードは、アイヌの人達の生活の様子を「日本奥地紀行」で詳細に記述しています。

 なお、ペンリウク氏は、「源義経像を現在地に遷祀」し、宮守として晩年を送るとともに、明治12年頃から上記51で紹介した「ジョン・バチェラー氏」とも親交があって、そのアイヌ語の先生にもなった方です。

写真56

56.イザベラ・バードは、アイヌの病人を手持ちの薬で治療したお礼に、当時、アイヌの人達以外に足を踏み入れることがなかった義経神社へと、「外国人として初めて案内」されました。

 当時は階段等は無かったようで、「日本奥地紀行」では、坂を何とかよじ登って本殿に向かった旨記述されています。

 なお、私は義経神社に何度か訪れていますが、いつも横着して狭い山道を「車」で登って、本殿に向かっていたので、境内の階段を登るのはこの日が初めてでした。

写真57

57.階段を西へ登り切ると、また階段があると思いきや、すぐ目の前に「本殿」が見えました。

 これまで、狭く曲がりくねった山道を「対向車」が来ないかハラハラして、車で登っていたのが無駄であったと感じました。

写真58

58.本殿に行く前に、右手(北側)へ向かうと、源義経が奥州から北海道に渡り、義経神社付近に居を構えたときに植えられたとされる「栗の木の御神木」がありました。

 私はこれまで、この「御神木」が何処にあるのか見つけられなかったところですが、車ではなく歩くことで、新発見を得られた思いです。

写真59

59.また、栗の木の根元には、これも新発見ですが「ペンリウクの碑」がありました。

写真60

60.次に、左手(南側)へ向かうと『義経資料館』があります。

 こちらは、私は何度か内部を見学したことがありますが、義経北方伝説・全国に残る義経伝説等の「源義経公」にまつわる各種資料が展示されています(入館料200円)。

写真61

61.そして、最後に「本殿」に到着!

 なお、説明が遅れましたが、「義経神社の起源」について諸説ありますが、択捉島に渡って大日本恵土呂府(えとろふ)の標識を建てた幕府の探検家の「近藤重蔵」が、1798年(寛政10年)に平取を訪れた際、「英雄神オキクルミに結びついた義経伝説」が当地アイヌの人達にあるのを知り、翌年に義経像を安置したのがはじまり、という説が有力です。

 義経北方伝説の真偽、また、江戸時代以前のアイヌの人達に何があったのか私は知りませんが、少なくともイザベラ・バードの「日本奥地紀行」では、1878年(明治11年)当時のアイヌの人達が、本当に源義経を信仰していたことが記述されています。

写真62

62.その後、義経神社からふれあいセンターびらとりまで戻り、『平取バス停』で富川方面行きのバスに乗り、今回のウォーキングは終了です。

 なお、正確に時間は計っていませんが、4~5時間は歩いて大変疲れていたので、ありがちな話としてバスの中で眠ってしまいそうでしたが、「路線バス」は途中停車を繰り返しながらも、たったの20分で富川市街まで戻ってしまったので、最後に拍子抜けしてしまいました。

【以上、ウォーキング距離 推定約16km】

(巻末1)「【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカに係るポータルサイト(第1章~第29章)!」

★第1章~第5章 (2020年10月~2021年10月)

1~5 (PNG 53.3KB)

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★第6章~第10章 (2021年10月~11月)

6~10 (PNG 50.1KB)

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★第11章~第15章 (2021年11月~2022年8月)

11~15 (PNG 61.5KB)

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★第16章~第20章 (2022年8月~10月)

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★第21章~第25章 (2022年11月~2022年12月)

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★第26章~第29章 (2022年12月~2023年3月)

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(超一括要約版)日高文化歴史散歩~★ブラ・ラブヒダカ(第1~29章:各章5コマ)!

ブララブヒダカ写真

(巻末2)「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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