★日高文化歴史散歩 「第14章 シャクシャインの戦い 西部国縫(くんぬい)進撃編 【1~62】!」 2022年(令和4年)7月下旬

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シャクシャイン中略7 (JPG 102KB)

【全体のイメージ】

道南地方

【参考:長万部町国縫(くんぬい)を含む道南地方の地図】

『Ⅰ シャクシャイン生誕地 【1~12】』

写真1

1.「シャクシャインの戦い」は、全道民のみならず、全国民が中学校等で学ぶ有名な戦いです。

 さて、今日は、その主人公のシャクシャインが「生誕したとされる地」に来ました。

 なお、「静内」ではありません。

 現在の『えりも町油駒』付近です。

写真2

2.数キロメートル南には、「襟裳岬」があります。

写真3

3.また、東側を望むと、シャクシャインが青年期を過ごしたとされる「トカチ・クスリ(釧路)」方面が見えます。

 

写真4

4.ちなみに、私のすぐ背後(北側)には、『航空自衛隊のレーダー基地』があります。

 今日は、ここを基点に太平洋沿岸をひたすら【西進(進撃)】、日高・胆振管内を経て、シャクシャインの戦いの主戦場となった「渡島管内の長万部町の国縫(くんぬい)」まで車を走らせ、シャクシャインの戦いに関係する地を、順次訪れることにします。

(なお、事前にシャクシャインを題材とした書籍やマンガ等を数冊読みましたが、「全てストーリーが異なっており」、おそらく当時の各史料の食い違いもあると思われますが、これからはあまり詳細には触れず、通説と思われることを「簡潔」に記述しておりますのでご了承願います。)

写真5

5.さて、【西進】を始めてほどなく、『ホロイズミ(現在のえりも町本町)』に到着。

 シャクシャインの呼びかけに応じ、1669年(寛文9年)6月から「和人に対して一斉蜂起」が行われた地の一つです。

写真6

6.上の地図は、札幌の北海道博物館で展示されている「シャクシャインの戦い関係地図」です。

 太平洋側では「ホロベツ(現在の登別市)からシラヌカまで」、日本海側では「ヲタスツ(現在の寿都町)からマシケまで」、一斉蜂起が行われました。

写真7

7.この一斉蜂起が行われた原因は、かつてのアイヌの人達は、本州他各地と自由に交易を行っていたものの、豊臣・徳川の全国統一政権が現れると、松前藩に「蝦夷地における交易の独占」が認められます。

 そして、松前藩は家臣に各地の交易権を分与、アイヌの人達は、「蝦夷地の各地商場に赴く和人」としか交易が出来なくなった上(商場知行制)、不公正な交易が突きつけられて、不満が噴出したからだとされます。

 なお、上のジオラマは、北海道博物館で展示されている「その交易の際に行われる行事」(オムシャ)の様子です。

写真8

8.さて、更に【西進】して『ウンベツ(現在の様似町)』に到着。

写真9

9.この付近は、1700年代に「和人が砂金を採取した地」のひとつです。

 上の写真は、親子岩ふれ愛ビーチ内を流れる『キリシタナイ川』と呼ばれる川です。

写真10

10.上の地図は、北海道博物館で展示されている「砂金場分布図」です。

 日高地方を中心に「ゴールドラッシュ」が起き、多くの和人が押し寄せ、川を汚して鮭が遡上しなくなったり、アイヌの人達に介在をして、シャクシャインの戦いを起こす間接的要因になったとされます。

 

写真11

11.更に【西進】して、『ウラカワ(現在の浦河町荻伏)』に到着。

 なお、現在の浦河市街付近は、かつては「ムクチ(現在の向別)」と呼ばれていました。

 この地のアイヌの人達は、終始「シャクシャイン勢」であり、シャクシャインの死後も数年にわたり、松前藩に抵抗したとされます。

 

写真12

12.更に【西進】して、『ミツイシ(現在の新ひだか町三石)』に到着。

 ここも和人に対する「一斉蜂起」が行われた地の一つです。

『Ⅱ シベチャリチャシ跡群 【13~26】』

道南地方の白地図2 (PNG 56.2KB)

【再掲:長万部町国縫を含む道南地方の地図】

写真13

13.さて、いよいよ本日のメインの目的地の一つ、「シベチャリ(現在の新ひだか町静内)」に到着。

 静内橋の北隣にある山は、シャクシャインが新たに築いたとされる『ホイナシリ(入船)チャシ跡』です。

写真14

14.「ホイナシリ(入船)チャシ跡」の北隣には、通称「シャクシャインのチャシ」と呼ばれる『シベチャリチャシ跡』があります。

 当該チャシ跡の上には、シャクシャイン像や展望台等がある「真歌公園」があり、本シリーズ「第4章の静内編」で一度訪れていますが、再度訪れることにします。

写真15

15.さて『真歌公園』に到着。

 手前にある建物は「新ひだか町アイヌ民俗資料館」であり、シャクシャインの戦いに関しても、たくさんの展示があります。

 また、奥にある建物は「シャクシャイン記念館」ですが、改修工事中であったため、中に入ることが出来ませんでした。

写真16

16.上の写真は、真歌公園内にある「シャクシャイン像」です。

 シャクシャインの戦いから三百年後の「1970年に建立」されましたが、老朽化のために2020年に新しい像が建立されました。

 なお、この像の「外観」については、賛否両論があるとのことです。

写真17

17.真歌公園の西側に行くと、シベチャリチャシ跡が1997年に「国の史跡」に指定された旨の看板があります。

 当該シベチャリチャシ跡の他、「シャクシャインの戦いに関連するチャシ跡」(南隣のホイナシリチャシ跡・メナチャシ跡・オチリチャシ跡・ルイオピラチャシ跡・アッペツチャシ跡)が、国の史跡に指定されています。

 これから「後者4つのチャシ跡」を、順次訪れることにします。

写真18

18.なお、公園西端にある展望台の手前には橋が架かっていますが、つい最近まで、私は「自然に出来た溝」を渡る橋だと思っていました。

 しかし、事前の下調べで初めて知ったのですが、この溝は「壕(ごう)」という、日本の城の堀のようなものだとのことです。

写真19

19.さて、「展望台」から静内市街を眺めます。

 シャクシャインの戦いの際、シャクシャインはここから遠く「松前方面」を眺めたと思われます。

写真20

20.なお、北側には「シベチャリ川(現在の静内川)」の様子が見えます。

 この川を境に、文化が異なる2つのアイヌの部族、東側の「メナシクル」・西側の「ハエクル」が長らく対立していました。

 1648~53年に両者が争い、メナシクルの首長「カモクタイン」が戦死し、メナシクルの首長は「シャクシャイン」となります。

 その後、松前藩の仲裁で一度は落ち着いたものの、再び対立が激化、1668年4月にハエクルの首長「オニビシ」が戦死しています。

写真21

21.さて、シベチャリチャシ跡を後にして、道道静内中札内線を【北進】し、「御殿山」と呼ばれる所にあるオニビシ方の『メナチャシ跡』を訪れます。

 ここには「和人の金堀の小屋」があり、ここを訪れたオニビシが、シャクシャイン勢に討ち取られたとされます。

 

写真22

22.なお、ここ御殿山は、当該チャシ跡の他、道の史跡に指定される「縄文遺跡」でもあり、また、明治4年に淡路から来た、静内開拓の祖といわれる稲田家の神社等もある所です。

 ちなみに、シベチャリチャシ跡と同様にここにも橋があり、これまで何気なく渡っていたものの、実はここも「壕(ごう)」であったと思われます。

 

写真23

23.さて、道道静内中札内線を更に【北進】して、二十間道路桜並木の北端の更に北東側にある『オチリチャシ跡』に到着。

 ここは、「波恵(ハエ)」を拠点とするオニビシが、対シャクシャインのために新たに築いた出城であるとされます。

 

写真24

24.更に道道静内中札内線を【北進】し、『ルイオピラチャシ跡』を眺める地点に到着。

 このチャシは、シャクシャイン方のものか、オニビシ方のものか不明とのことですが、ここから更に北側の奥地で「多くの和人により砂金採取」が行われ、両者の戦いに影響を与えたとされます。

 さて、これから最後のチャシ跡の史跡である「アッペツチャシ跡」を訪れることにします。

 なお、「アッペツチャシ跡」は、ここから西側へ直線距離で約20km先の日高町(旧門別町)内にあります。

 

写真25

25.山林のカーブが連続する林道をひたすら【西進】し、途中、シャクシャインの戦いとは全く関係ない施設ですが、新冠町にある『太陽の森ディマシオ美術館』の前を通過します。

 

写真26

26.そして、ようやく厚別川(日高自動車道の日高厚賀IC前を流れる川)の奥地右岸にある『アッペツチャシ跡』に到着。

 ここまでかなりの時間がかかり、改めて「日高の山奥はとても広い」と実感しました。

 ちなみに、新冠町と日高町(旧門別町)は「厚別川を境界」にしており、当該チャシ跡は日高町正和にありますが、写真撮影をしている場所は、最近よく天気予報で最高気温を観測したと聞く新冠町新和です。

 このチャシは、オニビシの死後、「その姉」が対シャクシャインのために新たに築いたものの、結局1668年にシャクシャイン勢に陥落されたとされます。

『Ⅲ 太平洋沿岸 【27~32】』

道南地方の白地図3 (PNG 56.6KB)

【再掲:長万部町国縫を含む道南地方の地図】

写真27

27.さて、太平洋側まで【南進】し、太平洋沿いの国道235号線を【西進】、途中、砂金が採取されたとされる『慶能舞(けのまい)川』を渡ります。

 なお、「旧JR日高線」が、波浪により大きく損壊している様子が見えました。

写真28

28.更に【西進】して、オニビシの本拠が付近にあったとされる『波恵(はえ)川』を渡ります。

写真29

29.その後、日高管内一長い河川の『沙流(さる)川』に到着。

 ここのサルの首長「ウトマサ」は、上記26で記述したオニビシ姉の夫であり、1669年4月に松前藩に窮状を訴えに行きますが、その帰途に病死してしまいます。 

 その死は、松前藩に「毒殺」されたものだという噂が広がり、その結果、シャクシャインの戦いが引き起こされたとされます。

写真30

30.更に国道235号線を【西進】し、門別競馬場の前を過ぎると、当局所管の日高管内を離れて「胆振管内むかわ町」へと入りますが、遠慮せずに進撃し続けます。

 なお、1400年代の和人は、「この太平洋側の鵡川と日本海側の余市までのライン」から西側に居住していたものの、その後、コシャマインの戦いの他、約百年に渡って和人とアイヌの人達との戦いが断続的に行われた結果、和人は渡島半島の南端にだけ住むようになったとされます。

 

写真31

31.ほどなくして『鵡川』に到着。

 ここもかつては、オニビシ側の「ハエクル」の影響化にありました。

 なお、アイヌ同士や和人との抗争の末、各コタンの首長の上に総大将という有力首長が現れ、「次の五大勢力」があったという説があります。

 シベチャリ以東を勢力としてシャクシャイン率いる「メナシクル」・シベチャリからシコツまでを勢力としてオニビシ率いる「ハエクル」・ハウカセ率いる「イシカリアイヌ」・その他「ヨイチアイヌ」・「内浦アイヌ」。

 上記のうち、ハウカセ率いる「イシカリアイヌ」は、シャクシャインの戦いに関与しなかったとされます。

 さて、これからむかわ町を離れ、日高自動車道・道央自動車道を利用して、一気に「室蘭市」まで向かうことにします。

写真32

32.道央自動車道でマコマイ(現在の苫小牧市)を通過後、「樽前サービスエリア」に立ち寄り、展望台から『樽前山』を眺めます。

 なお、「樽前山」は、シャクシャインの戦いが起こる直前の1667年に大噴火を起こし、その数年前の1663年には、「有珠山」も大噴火を起こしており、度重なる大噴火で大量の火山灰が降り注いだ結果、鮭が不漁となり、シャクシャインの戦いが起こる一因になったのではとされています。

『Ⅳ 室蘭・有珠 【33~43】』

道南地方の白地図4 (PNG 56.2KB)

【再掲:長万部町国縫を含む道南地方の地図】

写真33

33.その後、道央自動車道をひた走り、「エトモ(現在の室蘭市絵鞆)」に到着。

 『絵鞆岬』という所から、室蘭港の防波堤や内浦湾の風光明媚な景色を眺めます。

 なお、この付近の岬といえば「地球岬」が有名なので、私はこの岬を訪れるのは初めてでした。

写真34

34.近くの地名由来板で、私は初めて当地が「室蘭発祥の地」であると知りました。

 なお、シャクシャインは当地と繋がりがあったとされ、この天然の良港が「アイヌ勢の拠点」になったとされます。

写真35

35.また、岬から西側に目を向けると、渡島半島の東側にある『駒ヶ岳』が見えます。

 ちなみに、道外発新千歳空港行きの飛行機の窓から陸地を眺め、私が最近になって気付いたのは、「函館と室蘭は至近距離」にあるということです。

 特急列車だと苫小牧から東室蘭までは30分強で着く一方、東室蘭から函館までは2時間以上かかりますが、地図をみると「両者はほぼ等距離」です。

 私の素朴な疑問として、なぜアイヌ勢は松前勢が待ち受けている「国縫をスルー」して、直接舟で松前方面へ向かわなかったのかと思いますが、敵に挟み撃ちにされるのがいやだった・日本海側のアイヌ勢と国縫で合流するつもりだった・国縫に砂金採取場があって国縫自体を攻撃したかった等、なんらかの理由があったのだと思います。

 

写真36

36.別の展望台から、天然の良港「室蘭港」を眺めます。

 これからエトモを離れて、白鳥大橋で対岸のモロランに渡り、次なる目的地「有珠」へ向かうことにします。

 

写真37

37.伊達市街を通り過ぎて、天然の良港とされ、ほとんど湖のように見える『有珠湾』に到着。

 ここも、エトモ西側の「アイヌ勢の拠点」になったとされます。

 

写真38

38.なお、この付近には、シャクシャインの戦いとは直接関係ありませんが、のちにアイヌの父と呼ばれるジョン・バチェラ-の『バチラー夫妻記念教会堂』がありました。

写真39

39.また、有珠湾の北側には、ここもシャクシャインの戦いとは直接関係無いかもしれませんが、蝦夷三官寺の一つ『有珠善光寺』がありました。

 蝦夷三官寺は、ロシアの南下政策に対抗して、江戸幕府が1800年代初頭に建立したものですが、「有珠善光寺」は、少なくとも1600年代には存在していたとのことです。

 なお、私は、「厚岸の国泰寺」には学生時代に旅行で訪れて知っていたものの、「様似の等澍院」と「有珠善光寺」は日高に赴任するまで、正直知りませんでした・・・・

写真40

40.さて、「有珠善光寺」の更に北側にある『入江馬頭観世音碑』という所を訪れます。

写真41

41.この碑は、江戸幕府が1805年に「有珠・虻田牧場(馬牧場)」を開設したのを記念して、建立されたとのことです。

 その後、江戸幕府は1857年に、上記11で訪れた浦河町荻伏にも「浦河牧場」を開設しています。

 

写真42

42.なお、当碑の南側には、これから向かう交通の難所『礼文華(れぶんげ)峠』「静狩峠」が見えます。

 断崖絶壁の連続の峠で、江戸時代に馬を通すことが出来ず、当峠以東で天然の良港があるこの付近に、江戸幕府は「馬牧場」を開設したのだと思われます。

 

写真43

43.一方、当碑の北側には、上記32で記述した通り、1663年に大噴火を起こした『有珠山』が見えます。

 その後、1667年には「樽前山」も大噴火を起こして災難が連続、なお、ネガティブな話となって大変恐縮ですが、近頃はリーマンショク・東日本大震災・新型コロナと「百年に一度と思われる災難」が連続し、このような災難は百年の間に均等に起こるのではなく、一時期に集中して起こるのではないかと思ってしまいます。

『Ⅴ 長万部・国縫 【44~62】』

道南地方の白地図5 (PNG 56.2KB)

【再掲:長万部町国縫を含む道南地方の地図】

写真44

44.さて、国道37号線を【西進】して、カーブが連続する「礼文華峠」『静狩峠』を通過します。

 静狩峠付近のパーキングエリアから、いよいよアイヌ勢と松前勢の主戦場となった、国縫のある「長万部平野?」が見えてきました。

写真45

45.峠を下りたのち、南側から「静狩峠」を眺めます。

 実際はこの峠も「戦いの舞台」になったとされます。

写真46

46.その後、峠の下にあるJR室蘭本線の『静狩駅』に立ち寄ります。

 余談になりますが、長万部から札幌へ向かう鉄道は、通称「山線」(ニセコ・小樽経由)と「海線」(東室蘭・苫小牧経由)がありますが、前者は明治時代に開通している一方、後者は静狩峠等があるため、開通したのは昭和になってからです。

 ただし、海線の方が列車のスピードを早く、現在の特急列車は全て海線経由ですが、2000年の有珠山噴火の際に海線が不通となり、私は当時、「山線経由の臨時特急スーパー北斗」に乗ったものの、函館から札幌まで5~6時間もかかった旨記憶しています。

 

写真47

47.駅のホームに立つと、北側には「静狩峠」が見えます。

 なお、当駅の隣の『小幌駅』は、車で立ち寄ることも出来ない「日本一の秘境駅」として全国に知られ、峠の険しさを物語るものだと思います。

 

写真48

48.一方、ホームの南側は直線が続いており、この先「約20km南にある国縫駅」の更に先まで、直線だと思われます。

 

写真49

49.そして、国道37号線を長万部市街に向かって【南進】、こちらも「ずっと直線」が続いています。

 国縫における戦いは、実際には静狩から国縫までの約20Kmの間の「南北に延びる広大な平地」で行われ、平地を東西に平行して流れる「長万部川」「紋別川」「国縫川」が、戦いの要害になったとされます。

 私は、「古戦場跡」として見たことがあるのは、東海道新幹線や東海道本線の車窓から見える『関ヶ原』位ですが、とても狭い山間であり、この広大に広がる国縫の古戦場は、そのスケールが全く異なるように感じました。

写真50

50.さて、このような広大な平地で、アイヌ勢・松前勢とも「数百名同士の戦い」であったとされますが、どのような戦いが行われたのでしょうか。

 北海道博物館によると、「松前勢の武器」は東北諸藩からも借りた火縄銃が中心である一方、「アイヌ勢の武器」はトリカブトの毒が塗られた弓矢や槍が中心で、火縄銃も30挺ほど持っていたものの、松前勢の鉄砲隊に対して正面から対峙するのではなく、山林に隠れながら松前勢を弓矢で攻撃。 

 それに対して松前勢は、「アイヌ勢の毒矢対策」として、袋に綿をたくさん詰め、それを身にまとって戦ったとのことです。

写真51

51.ようやく長万部市街の北端に着き、当地付近で最大の河川の『長万部川』を渡ります。

 

写真52

52.そして、通称山線と海線の分岐点である、鉄道交通の要衝『長万部駅』に到着。

写真53

53.駅前の地図の看板を見ると、「長万部川・紋別川」は掲載されているもののの、北側(右側)の静狩峠や南側(左側)の国縫川は、遠すぎて掲載されていません。

写真54

54.なお、せっかく長万部まで来たので、当地名物「かにめし弁当」を購入します。

 余談になりますが、幼少の頃に飛行機嫌いの親に連れられて、上野発の夜行列車に乗り、函館発釧路行き(途中の旧千歳空港~札幌間を単純往復)の「特急おおぞら」の車中で、当該弁当を食べたのが今でも忘れられません。

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55.長万部駅を後にして更に【南進】、アイヌ勢が拠点にしたとされる『紋別川』を渡りますが、川幅が狭くて要害として機能しなかったとされます。

写真55

56.そして、長万部駅から約10km南にある『国縫駅』に到着。

 

写真56

57.駅の南側には、松前勢が防衛線とした『国縫川』が流れています。

 ここを防衛線にしたのは、当時、この付近に「和人の金堀」がたくさんいて、その人達を戦いに送り込む目的もあったのかもしれません。

 さて、1669年7月末から8月後半まで続いた戦いは、結局、「鉄砲隊の威力」に押されてアイヌ勢は後退、また、松前勢によるアイヌ勢分断工作もあり、アイヌ勢はシベチャリまで引き返すことになります。

写真57

58.最後に、本日の最終目的地の『シャクシャイン古戦場跡碑』に到着。

 国縫川のすぐ北側・JR函館本線のすぐ東側の「旧国縫小学校跡地」にある碑です。

写真58

59.2016年に当碑が建立されたとのことですが、長万部町長名で「この地に眠る両軍の犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。」とあります。

写真59

60.さて、上の写真は、「ピポク(現在の新冠町)」を以前に撮影したものです。

 1669年10月、松前勢はこの地でシャクシャインに和睦を持ちかけたものの、宴会の席で「シャクシャインをだまし討ち」にしたとされます。

 その翌日、シベチャリのチャシは、松前勢により「陥落」されてしまいます。

 なお、この戦いの後、松前藩の「アイヌの人達に対する圧力」は一層強くなり、漁場労働等を強いられることになる一方、砂金採り等の和人はいなくなったとのことです。

写真60

61.上の写真は、以前、松前桜さくらまつりの際に私が撮影した『松前城』の様子です。

 南側正面の海からの攻撃を意識した城とあって、海沿いを走る高架橋の国道から眺めると、「威圧感を感じる城」であったと記憶しています。

 なお、日本の戦国時代が実際より100~200年長引き、仮に徳川による統一政権が出来るのが遅くなっていたら、この北の大地に「アイヌの人達の統一政権」が出来ていたのであろうか、その場合、その後の北の大地の歴史はどうなっていたのであろうかと空想します。

 ちなみに、シャクシャインの戦いから約200年後の1868年、蝦夷共和国の樹立を目指して蝦夷地に上陸した旧幕府軍の「土方歳三」が、わずかな手勢を引き連れてこの松前城を陥落させていますが、翌年に新政府軍に奪還され、結局土方歳三も戦死しています。

 

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62.なお、これまで「シャクシャインの戦い」について、時系列を無視して概略しか記述してこなかったので、半世紀以上前の古い書籍ですが、1970年に出版された道編集の「新北海道史 第2巻(通説1)」の関係箇所を、最後に掲載させていただきます。

【以上、ウォーキング距離 推定約1km】

(日高文化歴史散歩のつもりが、「日胆文化歴史ドライブ」になってしまいました・・・・)

(巻末1)「【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカに係るポータルサイト(第1章~第29章)!」

★第1章~第5章 (2020年10月~2021年10月)

1~5 (PNG 53.3KB)

二風谷写真

様似写真

浦河写真

静内写真

イザベラ写真

★第6章~第10章 (2021年10月~11月)

6~10 (PNG 50.1KB)

新冠写真

襟裳岬写真

北海道開拓の村写真

三石写真

荻伏・東静内写真

★第11章~第15章 (2021年11月~2022年8月)

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日高市写真

オバケ桜写真

すずらん写真

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★第16章~第20章 (2022年8月~10月)

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★第21章~第25章 (2022年11月~12月)

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★第26章~第29章 (2022年12月~2023年3月)

26~29 (PNG 124KB)

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(超一括要約版)日高文化歴史散歩~★ブラ・ラブヒダカ(第1~29章:各章5コマ)!

ブララブヒダカ写真

(巻末2)「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」

ベスト12 (JPG 156KB)

(巻末3)「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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