「1.【優駿浪漫街道(国道235号線)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(日高門別~新冠~静内~三石~浦河)

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優駿浪漫街道 (PNG 50.2KB)

【優駿浪漫街道(国道235号線)】

(巻 頭)各歴史文化資源 ◎最寄りの「バス停」一覧◎

バス6 (JPG 46.6KB)

【日高町(門別地区) 🚏❶~❽番】

→ ❶門別競馬場前 → 【❷富川大町】 → ❸富川市街 → ❹門別警察署前 → ❺富川元町 → 【❻門別本町】 → ❼豊郷 → ❽厚賀 →

【新冠町 🚏❶~❻番】

→ ❶大狩部第二 → ❷森林公園前 → ❸高江 → ❹新冠診療所前 → 【❺新冠】 → ❻氷川神社前 →

【新ひだか町(静内地区)🚏❶~❽番】

→ ❶末広町 → ❷御幸町 → 【❸静内】 → ❹入舟 → ❺静内温泉 → ❻東静内市街 → ❼元静内 → ❽春立 →

【新ひだか町(三石地区)🚏❶~❼番】

→ ❶三石築港 → ❷三石第三 → ❸三石総合町民センター → 【❹日高三石】 → ❺東蓬莱町 → ❻ケリ舞 → ❼三石温泉 →

【浦河町 🚏❶~❻番】

→ ❶荻伏市街 → ❷井寒台 → ❸日高振興局前 → 【❹浦河町役場】 → ❺大通3丁目 → ❻大通4丁目 →

(参 考)旧JR日高線の「駅」~令和3年(2021年)4月1日廃止

駅6 (JPG 40.9KB)

【苫小牧駅方面】 → → 【富川駅】 → 【日高門別駅】 → 豊郷駅 → 清畠駅 → 厚賀駅 → → 大狩部駅 → 節婦駅 → 【新冠駅】 → → 【静内駅】 → 東静内駅 → 春立駅 → 日高東別駅 → → 【日高三石駅】 → 蓬栄駅 → 本桐駅 → → 荻伏駅 → 絵笛駅 → 【浦河駅】 → 東町駅 → → 【様似駅方面】

「 胆振管内から 【日高町(門別地区)🚏❶~❽番】 へ」』

(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎

→ ❶門別競馬場前 → 【❷富川大町】 → ❸富川市街 → ❹門別警察署前 → ❺富川元町 → 【❻門別本町】 → ❼豊郷 → ❽厚賀 →

★歴史文化資源一覧

★門別競馬場 ★苫小牧軽便鉄道(旧JR富川駅) ★佐瑠太駅逓所 ★佐瑠太橋 ★門別図書館郷土資料館 ★大神神社(富川神社) ★日高寺 ★日高寺八十八カ所霊場 ★門別稲荷神社 ★山田文右衛門翁顕彰之碑 ★沙流会所 ★門別駅逓所 ★彦根藩移住の地の碑 ★日高拓殖鉄道(旧JR厚賀駅)

オール門別 (JPG 113KB)

日高地方

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◎バス停◎「門別競馬場前」 / 道南バス【日高町(門別地区)❶番】

★門別競馬場 【🚏❶番】

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❶ 【平成9(1997)年】に開場した「日本で最も新しい競馬場」。

 ホッカイドウ競馬が開催される競馬場であり、地方競馬場の中でも、「最大規模の大井競馬場に並ぶ大きさ」を誇る。

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 ↓【4分】

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◎バス停◎「富川大町」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❷番】

★苫小牧軽便鉄道(旧JR富川駅) 【🚏❷番】

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❷ 三井物産株式会社が、苫小牧から鵡川間27.5kmに、「専用の馬車鉄道」を敷設し、木材を輸送したのが始まり。

 【明治43(1910)年】に、三井物産と王子製紙が、「合同で蒸気機関車」を走らせ、明治44(1911)年には、「鵡川から門別村佐瑠太(現在の富川)までの12.9km」を延長して、鵡川や沙流川上流から刈りだされる原木を運搬する森林軌道とした。

 【大正2(1913)年】から、王子製紙を主体とした「苫小牧軽便鉄道株式会社」として、従来の木材輸送に加えて、一般運輸営業を開始した。

 その後、昭和12(1937)年に様似まで延び、「日高本線が全線開通」。

 しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。

★佐瑠太駅逓所 【🚏❷番】

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❷ 「佐瑠太駅逓所」は、門別にあったものを【明治10(1877)年】に移転して設立され、建物は波惠村にあった官舎を移築した。

 「駅馬」は明治11(1878)年に新冠牧場から11頭、白老から60頭を導入した。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「富川市街」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❸番】

★佐瑠太橋(現沙流川橋) 【🚏❸番】

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❸ 門別町(現日高町(門別地区))「最初の大橋」。

 苫小牧からの国道が高江(新冠)に延長された際、【明治26(1893)年】に架橋。

 後に門別町(現日高町(門別地区))最大の橋である「沙流川橋」となる。

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 ↓【2分】 ~~沙流(さる)川~~~

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◎バス停◎「門別警察署前」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❹番】

★門別図書館郷土資料館 【🚏❹番】

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❹ 沙流場所の模型、大正時代の民家など、門別町(現日高町(門別地区))の礎を築いた「先人の業績の展示」のほか、現在の沙流川流域のパノラマ模型などを設置。

 特に、北海道で初めて確認されたメカジキの送り場の遺構を復元した模型があり、「メカジキ漁法とアイヌ文化」にとっての意義について展示している。

 【平成5(1993)年】に図書館と併設して開設。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「富川元町」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❺番】

★大神神社(富川神社) 【🚏❺番】

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❺ 東蝦夷地の防衛を固めるため、幕府から警備を命ぜられた「仙台藩士の三好監物(みよしけんもつ)」。

 その監物が、白老に置いた元陣屋の守護神として、塩竈神社の祭神を勧請して奉ったものを、監物の次男の三好清篤が門別に移住した際、【明治8(1875)年】に「白老から遷した神社」。

★日高寺 【🚏❺番】

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❺ 日高寺は、【明治43(1910)年】に真言宗、琢磨宥文が開基した「佐留太説教所」が始まりで、大正9(1920)年に公称が認可される。

★日高寺八十八カ所霊場 【🚏❺番】

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❺ 八十八カ所霊場は、【大正15(1926)年】に檀家等が冥加金を集めて、「94体の仏像」を安置したもの。

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 ↓【2分】

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 ↓【7分】

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◎バス停◎「門別本町」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❻番】

★門別稲荷神社 【🚏❻番】

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❻ 安政4(1857)年、長岡藩士が沙流会所を訪れた記録に記載され、享和3(1803)年に「シノダイにあった義経祠を移した」ともいわれるが、創建の年代は不明で、【寛政初期】ではないかとも言われている。

 残されている扁額「稲荷神社」が、文久4(1863)年に奉納されている。

 慶応4(1867)年、沙流場所請負人の「山田文右衛門」が社殿を改築。

★山田文右衛門翁顕彰之碑 【🚏❻番】

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❻ 昆布の投石事業や、門別稲荷神社社殿の造営など、門別町(現日高町(門別地区))の開発に尽力した沙流場所請負人の「山田文右衛門」をたたえるために、門別町(現日高町(門別地区))の百年記念として、【昭和47(1972)年】に「門別稲荷神社内に建立」されたもの。

★沙流会所 【🚏❻番】

 【 NO IMAGE 】 

❻ 天明6(1786)年頃、沙流場所の場所請負人であった阿部屋伝吉が、「富川に運上屋」を開設したが、寛政11(1799)年に沙流場所が幕府の直捌きとなった際に、「運上屋を会所」と改められた。

 直轄当時で比企市郎右衛門が詰合の時に建てられた会所の建物はその焼失し、【文化2(1805)年】に「富川から門別本町に新築、移転」された。

 「通行屋を兼ねた旅館」が並び、文化5(1808)年には下宿所、大工などの作事小屋、鍛冶小屋などが建てられた。   

★門別駅逓所 【🚏❻番】

 【 NO IMAGE 】 

❻ 「門別駅逓所」は、【明治3(1870)年】にそれまで経営していた稲田富右衛門から、当時日高地方を治めていた仙台藩に引き継がれ、「開拓使直轄」となった。

 明治5(1872)年に「豊郷」に移されたが、明治7(1874)年には「門別」に戻される。

 明治8(1875)年には飯田信三が、明治9(1876)年には疋田長次郎が駅逓取扱を命ぜられたが、【明治10(1877)年】に廃止され、「新たに佐瑠太村(富川)に駅を設置」した。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

新ベスト7 (JPG 110KB)

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 ↓【5分】 ~~波恵(はえ)川~~~

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◎バス停◎「豊郷」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❼番】

★彦根藩移住の地の碑 【🚏❼番】

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❼ 明治2(1869)年に政府の命のより佐瑠太を分領支配することになった「彦根藩」から、【明治4(1871)年】に斎藤正寿を隊長とする141名が移住した。

 その後、「支配地返上」により帰国あるいは離散した地に、昭和47(1972)年に門別町(現日高町(門別地区))百年を記念して立てたもの。 非現存?

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 ↓【6分】 ~~慶能舞(けのまい)川~~~ 

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 ↓【6分】 ~~賀張(かばり)川~~~

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◎バス停◎「厚賀」 / 道南バス【日高町(門別地区)🚏❽番】

★日高拓殖鉄道(旧JR厚賀駅) 【🚏❽番】

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❽ 「日高拓殖鉄道株式会社」が設立され、佐瑠太(富川)から日高沿岸を東に向かって鉄道を延長。

 【大正13(1924)年】には門別村内横断し、「佐瑠太・厚賀間が開通」した。

 その後、昭和12(1937)年に様似まで延び、「日高本線が全線開通」。

 しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。

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「これより 【新冠町 🚏❶~❻番】 へ」

(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎

→ ❶大狩部第二 → ❷森林公園前 → ❸高江 → ❹新冠診療所前 → 【❺新冠】 → ❻氷川神社前 →

★歴史文化資源一覧

★大狩部遺跡 ★判官館 ★新冠会所 ★新冠川にサケが遡上しなくなった理由(民話・伝説等) ★新冠泥火山 ★新冠牧馬場・旧牧場跡 ★馬頭観世音碑 ★新冠町郷土資料館 ★レ・コード館 ★氷川神社

オール新冠 (JPG 102KB)

新冠町 (PNG 51.8KB)

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 ↓【6分】 ~~厚別(あつべつ)川~~~

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◎バス停◎「大狩部第二」 / 道南バス【新冠町 🚏❶番】

★大狩部遺跡 【🚏❶番】

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❶ 厚別川左岸標高約35mの「舌状台地上」に位置し、現在は牧草地となっている。

 昭和34~35(1959から1960)年に発掘調査、「15基の墓壙群」が発見される。

 出土した土器は、続縄文時代初頭の土器編年を考える上で重要であり、「大狩部式土器」と呼ばれる。

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 ↓【9分】

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 ↓【4分】

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◎バス停◎「森林公園前」 / 道南バス【新冠町 🚏❷番】

★判官館(はんがんだて) 【🚏❷番】

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❷ 【文治5(1189)年】、兄頼朝に追われ北海道に渡った「義経」が、雪が少なく暖かいこの場所の要害堅固な巨岩に館を作ったといわれる。

 しかし、判官館という地名は、近年、伝えられるようになったとのことであり、古くは地元のアイヌの人々が、「ポロヌプリ(大山又は親山)」とよんで、酒を捧げるなどして大事にしていたところであり、「アイヌの人々の伝承の地に義経を結び付けたもの」の一つとなっている。

★新冠会所 【🚏❷番】

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❷ 【寛政11(1799)年】に、北方警備を強化するなどのため新冠場所が幕府の直捌きとなって、請負制が廃止された際、「運上屋を会所」として、ニイカップ河口から判官館西側へ移設された。

 「座敷3間、帳場、支配人番屋」などがあり、その他に渡船や井戸、旅宿などが建てられた。

 明治2(1869)年には「本陣」に改称され、明治5(1872)年には「駅逓」と呼ばれ、宿泊や郵便の業務を行った。

 「エドウィン・ダン」も巡視の際にたびたび宿泊したといわれる。

★新冠川にサケが遡上しなくなった理由(民話・伝説等) 【🚏❷番】

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❷ 昔は、ヤナギの木で作ったイサパキクニを使ってサケを獲っていたが、「草刈鎌(魔物を追い払うのに使うといわれる。)」が使われるようになって、新冠川にサケがあまり上らなくなったといわれる。

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 ↓【2分】

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◎バス停◎「高江」 / 道南バス【新冠町 🚏❸番】

★新冠泥火山 【🚏❸番】

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❸ 「泥火山」は火山作用と無関係の油田地帯にみられるもので、節婦断層でできた割れ目から、「液状化した地下の泥土や地下水、ガス」が噴出してできたもの。

 【昭和27(1952)年】の十勝沖地震の際に、泥水やガスの噴出活動が見られ、「日高新山」として注目を浴びた。

 昭和43(1968)年に「道の天然記念物」に指定。

 現在、この付近に日高自動車道の「新冠IC」の建設が進められている。

★新冠牧馬場・旧牧場跡 【🚏❸番】

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❸ 現在の農林水産省「家畜改良センタ-」の発祥となるもの。

 【明治5(1872)年】の開設から、ウルキ山を中心に3,888,000坪と広大な牧場であったが、「エドウィン・ダンの指導」により、静内に新冠牧馬場の中心を置いたので、「旧牧場」の名称で呼ばれた。

 ほぼ南端にあたるところに新冠牧馬場跡の「案内板」が立っている。

★馬頭観世音碑 【🚏❸番】

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❸ 農村環境改善センタ-横のお堂に安置されており、【天保6(1835)年】に「海岸に打ち上げられた」ものを拾ってきたものといわれる。

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 ↓【2分】 ~~新冠(にいかっぷ)川~~~

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◎バス停◎「新冠診療所前」 / 道南バス【新冠町 🚏❹番】

★新冠町郷土資料館 【🚏❹番】

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❹ 新冠町開町「百年記念事業」として【昭和56(1981)年】に建設。

 郷土に古くからある遺物・生活用品を始め、産業用品、世界及び日本の馬の民芸品と玩具等が展示され、「新冠町の歴史と産業」を一目で分かるようにマルチビジョンが整備されている。

 ビデオカメラによる町史映像記録、アイヌ民族調査、古老談の聞取り調査などを行っている。

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 ↓【3分】

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◎バス停◎「新冠」 / 道南バス【新冠町 🚏❺番】

★レ・コード館 【🚏❺番】

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❺ 【平成9(1997)年】に開館した町立施設であり、「20世紀の文化遺産のレコード」を世界的規模で収集しようというのが発想の原点。

 全国から寄せられた「100万枚のレコード」が収蔵されている。

 「館内のミュージアム」では、歴史的価値のある蓄音機や希少なレコード盤等が展示され、「個室のリスニングブース」では、レコードの試聴が可能となっている。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

6新冠中略7 (JPG 106KB)

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「氷川神社前」 / 道南バス【新冠町 🚏❻番】

★氷川神社 【🚏❻番】

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❻ 須佐之男命を祭神とし、「本社は埼玉県大宮市(現さいたま市)の氷川神社」であるが、創建の年代は不明。

 同じ名を持つものは東京や埼玉などに多いが、「北海道ではここが唯一」。

 昭和16(1941)年に社殿を「改築」したが、昭和49(1974)年に老朽化により解体。

 昭和53(1978)年に社殿、社務所を「新築」した。

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「これより 【新ひだか町(静内地区)🚏❶~❽番】 へ」

(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎

→ ❶末広町 → ❷御幸町 → 【❸静内】 → ❹入舟 → ❺静内温泉 → ❻東静内市街 → ❼元静内 → ❽春立 →

★歴史文化資源一覧

★新ひだか町博物館 ★静内神社 ★町民ギャラリーうま倶楽部 ★日高拓殖鉄道(旧JR静内駅) ★静内町の駅逓 ★静内橋 ★シベチャリのチャシ ★シャクシャイン城跡の碑 ★シベチャリ川流域チャシ群 ★シャクシャインの像 ★アイヌ民俗資料館 ★静内温泉 ★静内会所跡の碑 ★金刀比羅神社 ★益習館(頓成寺)跡の碑 ★東静内漁場跡の碑 ★旧武岡商店 ★開拓者集団上陸地記念碑 ★布辻の伝説(民話・伝説等)

オール静内 (JPG 196KB)

新ひだか町 (PNG 51.8KB)

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 ↓【3分】

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◎バス停◎「末広町」 / 道南バス【新ひだか町(静内地区)🚏❶番】

★新ひだか町博物館 【🚏❶番】

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❶ 【平成27(2015)年】に開館した博物館であり、日高管内随一の商業地に隣接した好立地にあり、「図書館を併設」する。

 「館内の構成」は、1自然の営み、2歴史年表、3先史、4アイヌ文化、5移住の歴史、6三石昆布、7自然との調和、8自然との共生。

 なお、当地の静内には、明治4(1871)年に「淡路の士族達」が開拓のため移住してきたが、その物語が映画化され、平成17(2005)年に吉永小百合主演の「北の零年」が公開された。

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 ↓【2分】

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◎バス停◎「御幸町」 / 道南バス【新ひだか町(静内地区)🚏❷番】

★静内神社 【🚏❷番】

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❷ 「旧称神武天皇社」といい、記録によると【天保(1830)年】の初めには存立していたといわれる。

 大正8(1919)年に蛭子神社を合併し、昭和5(1930)年に「静内神社に改称」した。

 昭和19(1944)年に池内ベニヤ工場付近から「現在地に移設」。

 昭和40(1965)年に本殿を「木造流れ造り」などに建替えられた。

★町民ギャラリーうま倶楽部 【🚏❷番】

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❷ 【平成19(2007)年】に開設された「町民ギャラリー」であり、新ひだか町地域交流センターの一角にある。

 「ギャラリーの構成」は、競馬とサラブレット、馬頭観音、馬と人の歴史、場産地ひだか、新冠御料牧場、暮らしのなかの馬、神馬、祈りのかたち、馬の工芸品、がんばれ地方競馬、及び町が生んだ名馬等。

 「当施設周辺」は、ホテル宿泊施設や個人商店が集積し、飲み屋街もある。

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 ↓【2分】

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◎バス停◎「静内」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❸番】

★日高拓殖鉄道(旧JR静内駅) 【🚏❸番】

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❸ 「日高拓殖鉄道株式会社」が設立され、佐瑠太(富川)から日高沿岸を東に向かって鉄道を延長し、大正13(1924)年には門別村内横断し、佐瑠太・厚賀間が開通した。

 【大正15(1926)年】には、「厚賀から静内までが開通」し、続いて浦河までの延長が計画されていた。

 その後、昭和12(1937)年に様似まで延び、「日高本線が全線開通」。

 しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。

★静内町の駅逓 【🚏❸番】

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❸ 静内の駅逓所は、「会所元である東静内」で佐野専左衛門が取り扱っていた。

 明治3(1870)年からは静内支配を命じられた「稲田邦植」が駅逓事務を管掌した。

 明治5(1872)年には稲田家の静内郡支配が罷免され、「本庁の管轄」となって改めて漁場持山田栄六の取扱いとなった。

 【明治15(1882)年】に東静内の静内駅逓所が廃止され、下下方(現静内)に「下下方駅として新設」された。

 その後、鉄道開通や自動車の出現によって「廃止、廃業」となっている。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

4静内中略7 (JPG 110KB)

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 ↓【3分】 ~~静内(しずない)川~~~

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◎バス停◎「入舟」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❹番】

★静内橋 【🚏❹番】

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❹ 明治32(1899)年に苫小牧から静内に至る国道が開設されたが、染退川に橋梁がなく、「当時の西浦河支庁長」を始めとした運動により、【明治39(1906)年】に当時として最新技術による「鉄筋コンクリ-ト製橋桁の木橋」が架設された。

 それまでは、「丸木舟」などを使っての船渡しを行っていた。

 その後、昭和10(1935)年に日高支庁管内初のワ-トントラス式鋼橋として架橋されたが、「現在の橋」は昭和44(1969)年に架け替えられたものである。

★シベチャリのチャシ 【🚏❹番】

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❹ 「丘先式チャシ」であるが、標高80mの崖に面しており、面崖式とも見れる。

 以前は、「三重の溝」があり、耕作のために外側と中の溝は埋められた。

 「陶器、漆器、鍋斧、布」などが出土、柱穴などもある。

 寛文9年蝦夷の乱と関係するチャシで、町民は「シャクシャインのチャシ」と呼ぶ。

★シャクシャイン城跡の碑 【🚏❹番】

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❹ シャクシャイン城跡の碑は、【昭和34(1959)年】に「シャクシャインの居城の跡」に建立された碑。

★シベチャリ川流域チャシ群 【🚏❹番】

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❹ 【寛文9(1669)年】のシャクシャインの戦いに深く関わるチャシとして、門別町(現日高町(門別地区))のアッペツチャシ跡とともに、「真歌のシベチャリチャシ跡、入船のホイナシリチャシ跡、目名のメナチャシ跡、農屋のオチリチャシ跡、豊畑のリオピラチャシ跡の5ヶ所」が、【平成9(1997)年】に「国の史跡」に指定された。

★シャクシャインの像 【🚏❹番】

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❹ 【寛文9(1669)年】に和人と戦ったシベチャリアイヌの長「シャクシャインの像」で、昭和45(1970)年に建立される。

 しかしながら、老朽化のために、平成30(2018)年に取り壊され、地元のアイヌ民族団体により、令和2(2020)年に「復刻」された。

★アイヌ民俗資料館 【🚏❹番】

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❹ 「アイヌの人々の生活、風俗、習慣」などを歴史的、文化的に正しく理解してもらうことを目的として、【昭和57(1882)年】に開設。

 静内地方のアイヌの人々が日常生活に用いた民具や儀式に使われた道具類、「100種類以上500点余り」を収蔵している。

 送り儀式に用いられたと思われる「エゾオオカミの頭蓋骨」は国内で唯一残された資料となっている。

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 ↓【11分】

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◎バス停◎「静内温泉」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❺番】

★静内温泉 【🚏❺番】

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❺ 金子忠蔵が発見したのもので、【明治36(1903)年】に「温泉旅館を開業」するが、冷泉のため経費がかかり建物も老朽化したため昭和32(1957)年頃「廃業」した。

 昭和51(1976)年、含重曹硫黄泉で各種病気に効果があることが分かり、「町民休養ホ-ム(静内温泉)」として整備される。

 平成23(2011)年に建物の耐震性の問題で取り壊されたが、平成25(2013)年に「再オープン」している。

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 ↓【8分】 ~~捫別(もんべつ)川~~~

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◎バス停◎「東静内市街」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❻番】

★静内会所跡の碑 【🚏❻番】

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❻ 寛政11(1799)年に幕府が静内場所を直轄支配した際、運上屋を「静内会所」と改め、行政機能を持たせた。

 当時の会所は「今の元静内」にあったが、その後、【安政5(1858)年】に「東静内に移され」、明治までその姿を留めたといわれている。

 その会所の跡地に平成2(1990)年に建立された「碑」。

★金刀比羅神社 【🚏❻番】

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❻ 【明治以前】から存立し、「元静内から会所移転の際」、現在地に移転され、昭和63(1988)年に「改築」された。

 木製欅渡辺綱羅生門の図、木製桐韓信潜股の図などの「宝物」がある。

★益習館(頓成寺)跡の碑 【🚏❻番】

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❻ 兵庫県淡路島から静内に移住した旧稲田家家臣が、この地にあった増上寺末寺の頓成寺を仮校舎として、【明治4(1871)年】に「子弟の教育を始めた学問所」である。

 翌年、目名に移転し、「目名教育所」と改称され、高静小学校の前身となる。

 当碑は、平成2(1990)年に「益習館の跡地」に建立されたもの。

★東静内漁場跡の碑 【🚏❻番】

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❻ 往時、この地には「場所請負人の漁場」があり、一帯には倉庫や番屋が立ち並んでおり、【明治4(1871)年】、静内に移住した旧稲田家臣の人々は「これらの建物を仮の宿」としていたが、火災のため衣類、夜具、その他諸道具を分蔵していた倉庫を焼失した。

 「当碑」は、平成3(1991)年にその跡地に建立されたもの。

★旧武岡商店 【🚏❻番】

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❻ 武岡清吉が開店した「雑貨店」で【大正末期】まで続けられた。 

 「静内町ではもっとも古い店」で、この建物は昭和58(1983)年に明治の商家として東静内から「北海道開拓の村」に移設された。

 「建物」は、木造平屋建て240㎡、入り母屋造りでマサぶき屋根、間口約17m、「和洋折衷の建築様式」で、クサビやクギを全く使わないで組み立てられいる。

 玄関から向かって左側の商店部分が従来の「日本式引き戸」に対し、反対の住宅部分は「洋風の窓」が設けられ、玄関のひさしもア-チ型となっている。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

10荻伏中略7 (JPG 125KB)

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 ↓【6分】

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◎バス停◎「元静内」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❼番】

★開拓者集団上陸地記念碑 【🚏❼番】

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❼ 静内町(現新ひだか町)百年記念事業による史跡標示地の一つとして、【明治4(1871)年】、稲田家主従546名が「この地に上陸」したことを記念して、昭和55(1880)年に建立された「碑」。

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 ↓【5分】

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◎バス停◎「春立」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(静内地区)🚏❽番】

★布辻の伝説(民話・伝説等) 【🚏❽番】

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❽ 静内と三石の境にある「布辻川」はプシュナイといい、他の川より早く凍結して、ものすごい音をたてて氷が裂けるので、「プシュ(破裂)するナイ(川)」といわれるが、河童がすんでいて、出てくるときプシュという妙な音を出すので、プシュナイになったという説もある。

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「これより 【新ひだか町(三石地区)🚏❶~❼番】 へ」

(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎

→ ❶三石築港 → ❷三石第三 → ❸三石総合町民センター → 【❹日高三石】 → ❺東蓬莱町 → ❻ケリ舞 → ❼三石温泉 →

★歴史文化資源一覧

★三石神社 ★三石会所、姨布(うばふ)駅逓所 ★三石羊かん ★郷土館図書館 ★日高線(旧JR日高三石駅) ★ショップ遺跡 ★蓬莱山 ★鳧舞神社 ★高田屋嘉兵衛翁碑 

オール三石 (JPG 84.7KB)

新ひだか町 (PNG 51.8KB)

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 ↓【16分】 ~~布辻(ぶし)川~~~

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◎バス停◎「三石築港」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❶番】

★三石神社 【🚏❶番】

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❶ 三石町開拓者小林家の祖、三石場所請負人の楢原屋半次郎(小林屋半次郎)が、【文化6?(1806?)年】に「姨布に弁天社を建て」、市杵島比売神を祀ったのが始まりといわれる。

 文政9(1826)年に二代目小林重吉らが再建造営し、天保4(1833)年の三石支配人仁木長兵衛とともに「社殿」を建立。

 明治8(1875)年に神社制度の改革により「稲荷神社と改称」した。

 明治33(1900)年、「現在地に移転改築」。

 昭和36(1961)年、「現在名に改称」。 

 昭和56(1981)年の集中豪雨よる裏山崩壊や、昭和57(1983)年の浦河沖地震による被災のため、昭和60(1985)年に「再建」された。

★三石会所、姨布(うばふ)駅逓所 【🚏❶番】

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❶ 三石場所が【寛政11(1799)年】に幕府の直領となった際、それ以前の「運上屋を三石会所」としたもの。

 文化6(1809)年の文献では、運上屋時代からある棟行11間、梁間4軒の建物に、享和3(1803)年に「座敷を増築した会所」と、旅宿、厩舎、板蔵、渡船、漁船などがあったと記録されている。

 三石会所の施設であった旅宿が、明治2(1869)年に幕府の請負制が廃止された際、「脇本陣」と改称され、【明治5(1872)年】に「駅逓所」とされ、小林重吉が取扱人となっていた。

 三石会所が、明治9(1876)年に、「山手へ移転」された際、駅逓所もその中に移されたが、その後、「姨布橋の西方」に移され、明治14(1881)年には池田熊蔵が、明治16(1883)年には小林悦太郎が取扱人となっていた。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「三石第三」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❷番】

★三石羊かん 【🚏❷番】

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❷ 【大正元(1912)年】に八木豊吉が、地元小豆で銘菓「三石羊かん」の製造を始める。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「三石総合町民センター」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❸番】

★郷土館図書館 【🚏❸番】

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❸ 三石町(現新ひだか町)開基百年記念事業の一環として、開拓の歴史を永く保存するとともに、資料をとおして郷土の理解を深める場として、【昭和50(1975)年】に「図書館と同時に建設」された。

 現在は、「新ひだか町総合町民センターはまなす」として改築されている。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「日高三石」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❹番】

★日高線(旧JR日高三石駅) 【🚏❹番】

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❹ 明治から大正にかかけて、政府では新規鉄道の敷設と既設鉄道の買収による国有鉄道の整備を急いでおり、昭和2(1927)年に苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道が政府に買収され「国有鉄道」となった。

 昭和4(1929)年に苫小牧から富川間、昭和6(1931)年に富川から静内間の軌幅拡張工事が竣工し、木材を除くほとんどの生産物の輸送は鉄道によることとなり「海上輸送が衰える原因」となった。

 【昭和8(1933)年】に様似までの延長が決定し、「同年に三石まで」延びた。

 その後、昭和12(1937)年に様似まで延び、「日高本線が全線開通」。

 しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。

★ショップ遺跡 【🚏❹番】

ショップ (JPG 49KB)

❹ 古くから調査された形跡があるが、「本格的発掘」は、昭和36(1961)年、昭和62(1987)年に行われ、その結果、「縄文前期の遺構」として住居跡、落とし穴、柱穴状ピットなど、遺物として土器、石器などが出土した。

 標高30m、丘陵端部約5万平方メートルが遺物包含地となっており、このような「大規模な遺跡」は全道非常にまれで、石錘の出土量も非常に多く、さらに出土した土器には網状の撚糸が混入するなど興味深いものとなっている。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

9三石中略7 (JPG 110KB)

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 ↓【1分】 ~~三石(みついし)川~~~

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◎バス停◎「東蓬莱町」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❺番】

★蓬莱山(民話・伝説等) 【🚏❺番】

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❺ 三石町(現新ひだか町)を流れる三石川の上流約3kmに位置する奇岩怪石の山で、「三石川を遡った怪物がアイヌの人々に殺されたあとに化石」となったものといわれるなど、「アイヌ民族に関する数々の伝説」が残っている。

 アイヌ民族は、三石川をはさんで対置する2つの山を「男蓬莱山、女蓬莱山」と呼び、男女2つの山を鯨の頭と尾になぞらえて信仰してきたが、その後「和人が入り」、様々な神を祀るようになった。

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 ↓【6分】

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◎バス停◎「ケリ舞・蓬栄」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❻番】

★鳧舞(けりまい)神社 【🚏❻番】

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❻ 二代目小林重吉が漁場所の守護神として、【天保7(1836)年】に「東蓬莱に建立した稲荷大明神」が前身で、明治8(1875)年に改称し、昭和3(1928)年に「現在地へ移転」した。

 昭和57(1982)年に「社殿を増築」する。

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 ↓【3分】

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◎バス停◎「三石温泉」 / 道南バス・JRバス【新ひだか町(三石地区)🚏❼番】

★高田屋嘉兵衛翁碑 【🚏❼番】

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❼ もともとは、昭和2(1927)年に「三石小学校前」に建立されていた。

 「高田屋嘉兵衛」は北方交易の先駆者で、海運や漁業を成功させた人物で、三石町(現新ひだか町)の開拓にゆかりが深く、かつて活躍した太平洋と誕生の地「淡路島を望む場所」に立てられている 。

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「これより 【浦河町 🚏❶~❻番】 へ」

(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎

→ ❶荻伏市街 → ❷井寒台 → ❸日高振興局前 → 【❹浦河町役場】 → ❺大通3丁目 → ❻大通4丁目 →

★歴史文化資源一覧

★赤心社記念館 ★元浦河教会 ★鈴木、沢、西の銅像 ★浦河牧場 ★井寒台神社 ★旧浦河支庁庁舎 ★日高線(旧JR浦河駅) ★浦河神社 ★浦河(浦川)会所 ★大黒座 ★浦河測候所 ★西忠義碑 ★正信寺 ★浦河簡易裁判所 ★日高山光照寺

オール浦河 (JPG 144KB)

浦河町 (PNG 50.7KB)

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 ↓【8分】 ~~鳧舞(けりまい)川~~~

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◎バス停◎「荻伏市街」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❶番】

★赤心社記念館 【🚏❶番】

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❶ 「赤心社」は、自作農の創出を目的とした民間事業家による開拓団で、【明治15(1882)年】に第1次移民団が西舎に入植するが、到着の遅れなどにより開墾が進まず、同年、第2次移民団が「荻伏に入植」した。

 当該館は、「赤心社の事務所」として現在の荻伏駅前に建設されたもの。

 大正7(1918)年、旧荻伏村に寄付されて、「公会堂」として荻伏支所庁舎の位置に移転された。

 大正14(1925)年から「荻伏村役場」として使われていたが、昭和29(1954)年、役場庁舎新築に伴い現在地に移設され、「荻伏郷土館」となる。

 現在、「浦河町立博物館荻伏分館」として赤心社の資料を収蔵。

★元浦河教会 【🚏❶番】

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❶ 【明治17(1884)年】に私立赤心社学校が設立され、「校舎兼教会」として荻伏駅前に建設された。

 明治27(1894)年、元浦河赤川橋南詰に「新会堂」を改築する。

 大正7(1918)年、教会堂を赤川橋より1.2Km海岸より(荻伏町15)へ「原型のまま移転」し、増築した。

 昭和57(1982)年の浦河沖地震により会堂が「危険建築物」となり、昭和58(1983)年に解体して、「北海道開拓の村」に移設し、昭和60(1985)年に新会堂が竣工された。

★鈴木、沢、西の銅像 【🚏❶番】

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❶ 明治34(1901)年に浦河支庁長として赴任し、日高の発展につくした「西忠義」、明治13(1880)年赤心社を創立し、初代社長となった「鈴木清」、明治15(1882)年に移民83名を率いて荻伏に移住し、開拓に尽くした「澤茂吉」。

 3人の開拓功労者として称えるため、【昭和10(1935)年】に作られた「銅像」で、故本郷新の若い頃の作品。

★浦河牧場 【🚏❶番】

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❶ 「幕府」が、様似に牧場を開くこととなり、翌年に実地調査をしたが適地がないので、浦河場所の「元浦河40万坪」を選定し、様似等澍院で加療した傷病馬と各場所から集めた50余頭で、【安政4(1857)年】に開設した。

 明治元(1868)年に廃止されるときは、「500余頭」におよび、有珠、虻田に次ぐ大牧場であった。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

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 ↓【7分】 ~~元浦川(もとうらかわ)~~~

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◎バス停◎「井寒台」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❷番】

★井寒台神社 【🚏❷番】  

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❷ 東蝦夷地鎮衛のために派遣された「南部藩」家臣一戸五左衛門ほかが、井寒台に現存する神威岩に信仰を捧げ、【享和元(1801)年】に小祠を建てて「稲荷大神を奉祀」したのが始まり。

 その後、破損が進み、明治3(1870)年に住民「木村義孝」が祠を立て直した。

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 ↓【5分】

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◎バス停◎「日高振興局前」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❸番】

★旧浦河支庁庁舎 【🚏❸番】

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❸ 明治30(1897)年に、北海道庁が郡区役所制度を廃止して支庁制度を設けて、「浦河支庁」など19の支庁が全道に置かれた。

 現在の「浦河町大通」に、【大正8(1919)年】に建てられたものは、木造一部2階建てとなっており、昭和7(1932)年には「日高支庁」と改称された。

 昭和31(1956)年に浦河町に払い下げられ、「堺町会館や郷土博物館」に利用されていた。

 昭和53(1978)年に「北海道開拓の村」に移設された。

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 ↓【0分】

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◎バス停◎「浦河町役場」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❹番】

★日高線(旧JR浦河駅) 【🚏❹番】

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❹ 明治から大正にかかけて、政府では新規鉄道の敷設と既設鉄道の買収による国有鉄道の整備を急いでおり、昭和2(1927)年に苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道が政府に買収され「国有鉄道」となった。

 昭和4(1929)年に苫小牧から富川間、昭和6(1931)年に富川から静内間の軌幅拡張工事が竣工し、木材を除くほとんどの生産物の輸送は鉄道によることとなり「海上輸送が衰える原因」となった。

 昭和8(1933)年に様似までの延長が決定し、同年に三石まで、【昭和10(1935)年】に「浦河まで延びた」。

 その後、昭和12(1937)年に様似まで延び、「日高本線が全線開通」。

 しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

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 ↓【3分】

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◎バス停◎「大通3丁目」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❺番】

★浦河神社 【🚏❺番】

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❺ 「浦河郡の総鎮守」。

 寛文9?(1669?)年の頃、松前の将、佐藤権左エ門が東蝦夷地鎮撫の守護神として大物主命を祀るため建立した「祠」と、 享和元(1801)年当時、浦河、様似、静内の三場所の請負人、渡島の佐野嘉衛門が稲荷大明神を祀るために建立した「祠」、 そして、享和2(1802)年に南部藩藩主南部大膳太夫が市杵島姫命を天女宮殿浦河大明神として祀るために建立した「祠」を、 【天保13(1842)年】に浦河漁場支配人近江屋周助が、豊漁、航海安全等を祈願して、石屋根の社殿を建立して「合祀」し、稲荷社としたのが始まり。

 明治8(1875)年に「郷社稲荷神社」と公称し、明治43(1910)年に社殿を改築した。

 昭和8(1933)年、「郷社浦河神社」に改称したが、昭和27(1952)年の十勝沖大地震等によって被害を受け、社殿を修理し、その後増築などをして現在にいたる。

★浦河(浦川)会所 【🚏❺番】

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❺ 【寛政11(1799)年】に浦河場所が幕府の直捌きとなった際、運上屋が会所となり、元浦川(現荻伏)の会所が「ムコチ(浦河)に移され」、南部藩300人が浦河に駐屯していた。

★大黒座 【🚏❺番】

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❺ 【大正7(1918)年】に「大黒館」として開館。

 大正14(1925)年の浜町大火によって焼失したが、直ちに再建し「大黒座」と改称した。

 戦時中一時休館したが、昭和24(1949)年より開館、昭和28(1953)年に改築し、その後、平成4(1992)年に「改築」して現在にいたる。

★浦河測候所 【🚏❺番】

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❺ 【大正15(1926)年】に木造平屋一部二階建ての庁舎を新築して「観測を開始」する。

 昭和29(1954)年に「鉄筋コンクリ-ト造り2階建て」の新庁舎を竣工した。

 なお、現在は「無人の観測所」となっている。

★西忠義碑 【🚏❺番】

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❺ 【明治34(1901)年】に浦河支庁長となり、日高の開発に努力した「西忠義の業績」を称えるため、昭和28(1953)年に設けられたもの。

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 ↓【1分】

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◎バス停◎「大通4丁目」 / 道南バス・JRバス【浦河町 🚏❻番】

★正信寺 【🚏❻番】

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❻ 「真宗大谷派の寺で浦河で一番開基が古い」といわれる。

 安政5(1858)年、「函館」に役寺正信坊施設として創立されたのが始まりで、明治11(1878)年に第1世住職となる越中国礪波郡の人、清水綱道が、日高国浦河郡への移転を願い、【明治12(1879)年】に堂宇を建てて、本尊阿弥陀如来像を持って「浦河村鱗別に移転」し、本願寺末寺とした。

 明治21(1888)年に「本堂」が落成し、明治26(1893)年に清水綱道が鱗別川の貸座敷業跡の建物を利用して庫裏と座敷にあて、「本堂を新築移転」した。

 昭和27(1952)年の十勝沖地震により破損し、昭和34(1959)年に「移転新築」された。

★浦河簡易裁判所 【🚏❻番】

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❻ 【明治15(1882)年】に「浦河治安裁判所」として設置されたが、明治18(1885)年、幌泉に幌泉治安裁判所として移転され、明治23(1890)年の裁判所構成法の施行により「幌泉区裁判所」と改称される。

 明治28(1895)年、浦河に移転し、「浦河裁判所」と改称し、明治30(1897)年、現在地に新庁舎を建築し、太平洋戦争終了後に「浦河簡易裁判所」と改称した。

★日高山光照寺 【🚏❻番】

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❻ 曹洞宗。 釈迦牟尼如来が本尊。

 【明治15(1882)年】に「開融禅が地方巡教」に際して、当地の信徒と協議し、道宇を建立したのが始まり。

 明治18(1885)年に竜王堂を建立し、本尊八大竜王を奉る。 

 昭和4(1929)年に「西国三十三番観音石像」を境内の樹林内に安置し、本堂を大修理した。

 昭和8(1933)年には庫裏を大改造築し、昭和27(1952)年には「十勝沖地震」により破損したため、堂宇を大修理し、また、三十三番観音石像も破損したために本堂側に移して安置した。

 境内は老樹が繁茂し、5月に桜が満開となる。

 俗称「山寺」といわれる。

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 ↓【2分】

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【2.とんがりロード(国道336号線等)】方面へ

(巻末1)「【日高三街道(国道)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」に係るポータルサイト等

三街道 (PNG 76.3KB)

1.優駿浪漫街道(国道235号線)

「1.【優駿浪漫街道(国道235号線)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(日高門別~新冠~静内~三石~浦河)

優駿浪漫街道

2.とんがりロード(国道336号線等)

とんがりロード

3.沙流(さる)ユーカラ街道(国道237号線等)

沙流ユーカラ街道

姉妹編.日高の内陸(道道)

道道

(巻末2)【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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