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【とんがりロード(国道336号線等)】
(巻 頭)各歴史文化資源 ◎最寄りの「バス停」一覧◎
【浦河町 🚏❼~❽番】
→ ❼白泉 → ❽浦河郷土博物館 →
【様似町(市街以西)🚏❶~❼番】
→ ❶鵜苫市街 → ❷塩釜 → ❸様似西町 → ❹様似本町 → ❺会所町 → ❻様似栄町 → 【❼様似】 →
【様似町(市街以東)🚏❶~❻番】
→ ❶日本電工前 → ❷平宇 → ❸アポイ山荘 → ❹冬島 → ❺山中 → ❻幌満 →
【えりも町(岬以西)🚏❶~❿番】
→ ❶近浦 → 【❷えりも】 → ❸新栄 → ❹えりも郷土資料館 → ❺歌別 → ❻下歌別 → ❼西歌露 → ❽自衛隊前 → ❾油駒 → 【❿えりも岬】 →
【えりも町(岬以東)🚏❶~❻番】
→ ❶岬市街 → ❷百人浜 → ❸庶野 → ❹美島 → ❺咲梅 → ❻日勝目黒 →
(参 考)旧JR日高線の「駅」~令和3年(2021年)4月1日廃止
【苫小牧駅方面】 →→ 日高幌別駅 →→ 鵜苫駅 → 西様似駅 → 【様似駅(終着駅)】
「浦河町日赤前から 【浦河町 🚏❼~❽番】 へ」
(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎
→ ❼白泉 → ❽浦河郷土博物館 →
★歴史文化資源一覧
★白泉神社 ★幌島台地(白泉遺跡) ★浦河町立郷土博物館・馬事資料館
【★1.優駿浪漫街道(国道235号線)】方面から
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↓【6分】
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◎バス停◎「白泉」 / JRバス【浦河町 🚏❼番】
★白泉神社 【🚏❼番】
❼ 【明治2(1869)年】に地域住民が「稲荷大明神を奉祀」したのが始まりで、明治32(1899)年の社殿を建立し、昭和33(1958)年、「現在地に移転新築」された。
★幌島台地(白泉遺跡) 【🚏❼番】
❼ 「新形式の土器、装飾用品、墓穴」のほか、日高沿岸で初めて大洞A式土器(岩手県大船渡市で出土)が確認された。
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↓【2分】
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↓【0分】
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◎バス停◎「浦河郷土博物館」 / JRバス【浦河町 🚏❽番】
★浦河町立郷土博物館・馬事資料館 【🚏❽番】
❽ 「郷土博物館」は、現在の荻伏駅前に建てられた赤心社株式会社出張所事務所を昭和29(1954)年に改修し、「浦河町郷土館」として開館したのが始まり。
昭和53(1978)年に「旧浦河東小学校校舎を改築移転」し、現在に至る。
町内の遺跡から発掘された土器、石器、アイヌ家屋のチセやアイヌ民具、明治時代の開拓資料などが展示されている。
「分館赤心社記念館」には、明治15(1882)年に入植した赤心社の資料を展示している。
「馬事資料館」は、全国でも珍しい馬の博物館。
32頭のサラブレッドを乗せた「優駿の門」がシンボル。
浦河町立郷土博物館に併設し、明治40(1907)年創設の旧日高種馬牧場で使用された迎賓馬車など、「馬に関する資料や世界各国の馬具等」が展示されている。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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「これより 【様似町(市街以西)🚏❶~❼番】 へ」
(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎
→ ❶鵜苫市街 → ❷塩釜 → ❸様似西町 → ❹様似本町 → ❺会所町 → ❻様似栄町 → 【❼様似】 →
★歴史文化資源一覧
★鵜苫神社 ★塩釜製塩所跡、塩釜山道 ★三つの岩(民話・伝説等) ★三井軌道 ★蝦夷三官寺 等澍院 ★等澍院 護摩堂 ★住吉神社 ★竜力山智教寺 ★三十三観音像 ★観音山の御神木 ★エンルムチャシ跡、シャマニ台場跡 ★様似会所 ★様似の駅逓 ★エンルムの泉 ★様似郷土館 ★様似の酒造方跡、砂馬荷(しゃまに)陶窯跡 ★砂馬荷(しゃまに)仮造船所 ★様似の渡船場 ★日高線(旧JR様似駅)
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↓【4分】 ~~日高幌別(ひだかほろべつ)川~~~
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◎バス停◎「鵜苫市街」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❶番】
★鵜苫神社 【🚏❶番】
❶ 【江戸時代】創基。 祭神は保食神で、神明造柾葺の建物。
「会所時代に漁場稲荷」として奉祀されていた。
明治37(1904)年に第1次鵜苫尋常小学校跡に新築奉遷し、大正9(1920)年に「現在地に移転」された。
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↓【3分】
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◎バス停◎「塩釜」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❷番】
★塩釜製塩所跡、塩釜山道 【🚏❷番】
❷ 【寛政12(1800)年】に開設の「塩釜製塩所の塩」は、鮭漁時期の塩蔵用として使われたといわれ、製塩方法は、海水を汲み上げて、丘の上に据えつけた「釜で煮詰める」というものであった。
幕府で製塩をはじめたのは蝦夷地では、「様似と根室の2箇所」であった。
鉄釜の破片が出土し、「塩釜遺跡」として埋蔵文化財包蔵地として指定。
【明治37(1904)年】に開設の「塩釜山道」は、鵜苫地区で生産された水産加工品を、様似の回漕店に運搬するための唯一の輸送道路であったが、オショロコツといわれる峠あたりは、風が強くぬかるみの多い難所であった。
大正11(1922)年に新国道が完成し、同時に「塩釜トンネル」も開通したことで廃道となった。
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↓【2分】
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◎バス停◎「様似西町」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❸番】
★三つの岩(民話・伝説等) 【🚏❸番】
❸ 昔、東の方で戦に負けた酋長が「妻と子供」を逃がしたが、様似まで来たとき、とても逃げられないとあきらめて、子供を抱いて海にはいると岩になってしまった。
これが「ソピラプンゲ(今のソビラ岩又は烏帽子岩)」である。
妻の跡を追って逃げてきた「酋長」はこれを見て安心し、自分ものその西に並んで岩になったが、追いかけてきた「敵酋長」がこれを見て悔しがり、矢を放ったところ岩は三つに割れた。
これが「ウンペレプンゲ(今の親子岩)」である。
★三井軌道 【🚏❸番】
❸ 三井物産(株)木材部が様似に駐在所を構え、日高の森林開発に乗り出し、上杵臼の木材を搬出するために設置した「約30Kmのトンネル2つを含む森林鉄道」で、ドイツから輸入した60馬力のディ-ゼル機関車と90馬力のガソリン機関車を使用した。
【昭和12(1937)年】には、「様似西町海岸まで開通」し、そこから船積みして本州方面に海上輸送した。
軌道輸送も船積み作業も昼夜兼行で行われたいたので、「当時の西町の賑わい」は、様似の隆盛期を意味するものであった。
しかし、昭和16(1941)年には、「木材生産量の減少」に伴いディ-ゼル機関車は国に買い取られ、軌道、ガソリン機関車などは軍に徴発された。
戦後、「撤去」されトンネルはふさがれた。
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↓【2分】
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◎バス停◎「様似本町」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❹番】
★蝦夷三官寺 等澍院 【🚏❹番】
❹ 【文化元(1804)年】に幕府の東蝦夷地における本格的宗教政策として、場所で働く和人の宗教行事の執行や宗門改めを行うとともに、「ロシアの千島列島南下に伴うキリスト教の侵入防止」などのために建立された「蝦夷三官寺(有珠善光寺、厚岸国泰寺、様似等澍院)の筆頭寺」で、道内でも由緒ある寺院の一つ。
オコタヌシ(現栄町)に建立され、「勇払から幌泉までを管轄」とした。
文化8(1811)年に護摩堂も建立されたが、文化14(1817)年に熊害などの理由により移転を出願し、文政元(1818)年に浜御長屋に移転、文政4(1821)年には観音山東麓のソピラウドルサンナイに移転する。
安政4(1857)年に蝦夷三官寺の受持ち場が廃止されてからは「衰微の一途」をたどるが、明治23(1890)年に「塚田純田が再興」する。
昭和40(1965)年には、護摩堂を現在地に移転して「復元新築」し、同年様似町指定文化財となる。
薬師如来三尊仏像、弁才天像が現存する。
★等澍院 護摩堂 【🚏❹番】
❹ 【文化8(1811)年】に天台宗と真言宗だけに伝わる大切な行事、「加持祈祷、弘道修行の道場」としてオコタヌシ(栄町)に寺院と併設して建立された。
その後、川の氾濫や熊などの被害で「シャマニ会所に避難」し、仮寺院とした。
文政4(1821)年にオコタヌシからウトルサンナイ(本町)に本堂、庫裏とともに「引寺移転」した。
現在の建物は昭和40(1965)年に、等澍院の新築移転の機会に「旧建築様式」を用いて復元したもの。
同年、様似町指定文化財。
★住吉神社 【🚏❹番】
❹ 住吉神社に伝わる記録では、「年代などに大きなずれ」があり、立証できないが、【宝永の初年頃(1704年頃)】、住吉神社の護符が海上に漂流しているのを発見し、これを後の「エンルム三社(観音堂、稲荷社、船玉社)に合祀」し、海上の守護神として尊崇したとある。
文化10(1813)年以降、明治2(1868)年まで、様似場所請負人であった佐野屋仙右衛門が、シャマニ会所の近くに弁財天(船玉神)を主神とする神殿を新築し、「エンルム三社を合祀」したのが始まりといわれるが、ここでは住吉神社の名が出てこない。
【明治8(1875)年】北海道開拓使が、神仏混交の整理を行ったのに伴い、様似郡代矢本蔵五郎からの郷社改正の奉願書によって、「新旧3神を合祀する住吉神社」として認可され、様似の郷社と公称された。
明治28(1895)年に大暴風雨により倒壊し「現在地に移転」し、現在の社殿は昭和12(1937)年に「改築落成」したものである。
★竜力山智教寺 【🚏❹番】
❹ 【明治22(1889)年】に説教場から発足。
宗派は「真宗大谷派」、本尊は阿弥陀如来、開祖は谷口智幢。
境内には、道南以北ではここだけといわれる、江戸時代の墓石群9基がある。
★三十三観音像 【🚏❹番】
❹ 【明治28(1895)年】に蝦夷地三官寺等澍院の中興の祖である13代住職「塚田純田」が、信者からの寄進を仰ぎ、西国三十三番札所にならい、「石像の観音」を当時和人から円山と呼ばれていた山(現在の観音山)の上に配置した。
★観音山の御神木 【🚏❹番】
❹ 明治28(1895)年に等澍院の中興の祖である塚田純田が、三十三観世音の石像を安置した観音山の頂上にあり、御神木として敬愛されている「樹齢400年以上といわれるカシワ」。
直径116cm、樹高12m。 昭和48(1973)年に「北海道記念保護樹木」に指定される。
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↓【3分】
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◎バス停◎「会所町」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❺番】
★エンルムチャシ跡、シャマニ台場跡 【🚏❺番】
❺ 「エンルムチャシ跡」は、エンルム岬の高台にあったチャシの跡で、文化庁埋蔵文化財包蔵地に指定されている。
「シャマニ台場」は、外国船の往来が激しくなった太平洋沿岸の警備のために、【文政4(1821)年】に各所に木材で作った大砲を配置したもの。
弾は今の「花火」のようなもので、ただ破裂するだけのもので実戦的ではなかったが、遠望する外国船の眼をまどわし、威嚇する謀略としては十分な効果があったようである。
シャマニ台場には、「2基の木砲」が設置されていた。
★様似会所 【🚏❺番】
❺ 【寛政10(1798)年】に太平洋沿岸を直領とした幕府は、油駒場所を幌泉と様似場所に分割し、松前藩の運上所であった建物を「幕府直轄のシャマニ会所」と改め、東蝦夷地調査の拠点としたが、これが様似会所の始まりとされている。
当時幕府が直領した各所に開設した「10会所の一つ」であった。
文化6(1809)年、「建物は改築」され、秋田杉を用いて133坪となった。
以来、調査隊をはじめ、役人、豪商たちの「宿泊の場」として使われた。
その後、座敷、料理場、帳場などを増築し「合計182坪」となった。
最初は石屋根であったと言われるが、後に柾葺板、二重囲いの建物となった。
【明治2(1869)年】に会所が廃止され、明治8(1875)年に様似住人でシャマニ会所支配人代であった「矢本蔵五郎」に払い下げられ、鮭建網、宿所、駅逓を経営し、その後も子孫が住んで、「商業の拠点」となり、様似町発展の基盤となっていたが、昭和33(1958)年の台風により損壊し、解体された。
★様似の駅逓 【🚏❺番】
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❺ 19世紀の初頭、江戸幕府が蝦夷地を直轄した時代に、「会所や運上屋」が整備され、逓送、人馬継立、宿泊などの駅逓業務を行ってきた。
【開拓使時代以降】にも「駅逓所」が設けられ、取扱人をおき、手当てと官馬を支給し、旅行者や開拓移民の拠点として、また、各地域間の通信業務を担当してきた。
初め駅所といって、様似会所支配人「矢本蔵五郎」が旅籠屋とともに経営。
★エンルムの泉 【🚏❺番】
❺ エンルム岬の西側にあり、【時代は不明】であるが、一説によれば「アイヌ時代から使われていた湧泉」で、海岸近くにありながら、まったく塩分が含まれていない清水であったことから、いつの頃か設備を整えた井泉として使われるようになった。
また、様似会所時代には、これとは別に「会所の井戸」と称するものが2箇所あった。
★様似郷土館 【🚏❺番】
❺ 昭和40(1965)年から様似町内の文化遺産調査を開始し、その結果、予想以上に保存されていることが判明したことから、【昭和42(1967)年】に「北海道100年記念事業」として開館された。
当時は日高支庁管内に類似施設がなかったため「日高郷土館」と名づけたが、その後他町で建設され、昭和43(1968)年に「様似郷土館」と改称された。
シャマニ場所絵図、シャマニ会所棟上札、矢本家の古文書などが展示されている。
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◎バス停◎「様似栄町」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❻番】
★様似の酒造方跡、砂馬荷(しゃまに)陶窯跡 【🚏❻番】
❻ 「酒造方跡」は、オコタヌシ(栄町)に新築された当時の等澍院と道を隔てて相対していた。
酒類だけでなく、「味噌、しょうゆも醸造」しており、酒造方小屋1、こうじ室1、米搗き場1、酒造蔵2、酒板蔵2、雑小屋1、水車小屋1の建物があった。
昭和8(1933)年の「様似川堤防修築工事」のときに、この跡が発見された。
「陶窯跡」は、オコタヌシ(栄町)の様似酒造方の建物と並んであった。
「北海道で最も古い陶窯」として史家や陶芸家たちの間では興味ある資料として以前から取り上げられていたが、施設の場所がまったく不明であった。
しかしながら、昭和8(1933)年の「様似川堤防修築工事」のときに、この跡が発見された。
★砂馬荷(しゃまに)仮造船所(様似川河口) 【🚏❻番】
❻ 幕府は7年を限って東蝦夷地を直領とし、場所ごとに会所を設け直捌制を布いたことから、本州からの蝦夷地に送る物資が急激に増加し、それに伴って輸送機関である官船や買上船が不足したため、「各地に建設した造船所」のひとつ。
【寛政12(1800)年から享和3(1803)年までの4年間】で、凌風丸、飛竜丸、翔鳳丸、済通丸、鳴鶴丸、萬春丸、豊秦丸、天福丸など「11隻の巨大な官船」が五葉松などを使って建造された。
1500石積みの御用船で、赤く塗られていたため「赤舟」とも呼ばれていた。
帆に日の丸を染め抜き、五色の吹流しをたなびかせ、大海を乗り切っていたといわれる。
総船頭は「高田屋嘉兵衛」であった。
現在は遺跡としても残っていない。 (様似川河口ではなく、幌満川河口にあったという説もある)
★様似の渡船場 【🚏❻番】
【 NO IMAGE 】
❻ 【寛政年間】から始まった「渡船場」は、駅逓事業と並び重要な交通機関で、往来する人たちの橋渡しをする大事な役割を担っていた。
様似町では、「様似川、二漢別川、幌満川、幌別川の4箇所」にあり、渡し舟を官給していた。
特に「幌満川の渡船場」は様似山道を結ぶ重要な役割を担っていた。
明治後期から海岸道路が整備され、「架橋工事」により、様似川は明治36(1903)年に、幌満川は大正11(1922)年に、二漢別川は大正13(1923)年に廃止された。
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↓【2分】 ~~様似(さまに)川~~~
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◎バス停◎「様似」 / JRバス【様似町(市街以西)🚏❼番】
★日高線(旧JR様似駅) 【🚏❼番】
❼ 明治から大正にかけて、政府では新規鉄道の敷設と既設鉄道の買収による国有鉄道の整備を急いでおり、昭和2(1927)年に苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道が政府に買収され「国有鉄道」となった。
昭和4(1929)年に苫小牧から富川間、昭和6(1931)年に富川から静内間の軌幅拡張工事が竣工し、木材を除くほとんどの生産物の輸送は鉄道によることとなり「海上輸送が衰える原因」となった。
昭和8(1933)年に様似までの延長が決定し、同年に三石まで延びた。
その後、【昭和12(1937)年】に「様似まで延び、日高本線が全線開通」。
しかしながら、平成27(2015)年1月に高波で線路が被災して「列車が運休」し、多額の復旧費や赤字運行が見込まれるため、令和3(2021)年4月1日に「鵡川~様似間が廃止」された。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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「これより 【様似町(市街以東)🚏❶~❻番】 へ」
(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎
→ ❶日本電工前 → ❷平宇 → ❸アポイ山荘 → ❹冬島 → ❺山中 → ❻幌満 →
★歴史文化資源一覧
★日本電工(株)日高工場 ★平宇山道 ★アポイ岳の名の由来(民話・伝説等) ★アポイ岳ジオパークビジターセンター ★松本製材工場 ★冬島の穴岩(民話・伝説等) ★様似山道 ★原田宿跡 ★明治時代のトンネル ★日高製材合資会社、幌満川の橋 ★和助地蔵尊
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◎バス停◎「日本電工前」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❶番】
★日本電工(株)日高工場(写真は幌満第二発電所)【🚏❶番】
❶ 【昭和9(1934)年】に「幌満川水力電気(株)」として発足し、第1発電所の建設から始まり、以来、第2、第3発電所が建設され、社名も東邦電化(株)から、日本電気冶金(株)と合併して「日本電工(株)日高工場」と改称。
平成13(2001)年現在の「設備は、エル-式開放型電気炉1基、珪酸マンガン苦土石灰肥料製造設備1式」で、フエロアロイ(シリコンマンガン)、珪酸マンガン苦土石灰肥料を生産している。
「第2発電所、第3発電所」は年間5,500万Kwhを出力している。
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◎バス停◎「平宇」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❷番】
★平宇山道 【🚏❷番】
❷ この山道は、日本電工(株)前からはじまり、現国道の山斜面や台地を越えて「冬島市街に至る道路」で、古い時代には、海岸に突き出た岬を避けて往来した人たちによって踏み固められただけの自然道で、様似山道につながる道路として利用されていた。
明治36(1903)年の道路工事で、この自然道が「拡幅修復」されて以来、荷馬車も往来できるようになり、近郷との物資交流の役割を担った。
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◎バス停◎「アポイ山荘」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❸番】
★アポイ岳の名の由来(民話・伝説等) 【🚏❸番】
❸ 昔、「鹿はアイヌの人達の食生活上重要なもの」であったが、なぜか様似一帯にはその影され見られなかった。
アイヌの人達はカムイにお願いして授けてもらおうと協議し、その祭場を冬島の奥にある「山の頂上」に選んだ。
そこで頂上に祭壇を設けて、刀を飾り供物を上げ燃え草を積み重ね、これに火を付けて「一団の火の玉」を作った。
この火にてらされた祭場に、アイヌの人達が並び「鹿のお授け」を祈った。
その甲斐があってだんだん「鹿が繁殖」して、今日の様似の名物となった。
そこでこの山を「アペイオイヌプリ(火が多くある山)」と呼んだ。
★アポイ岳ジオパークビジターセンター 【🚏❸番】
❸ 【平成25(2013)年】に開館した町立施設。
様似町では、地球表面にある地殻の下の「マントルが地表に表れている特異な地質」のため、標高810mという低標高のアポイ岳は、高山植物の宝庫となっており、その高山植物群落は昭和27(1952)年に「国の特別天然記念物」に指定される。
また、様似町は、平成27(2015)年に「ユネスコ世界ジオパークに認定」される。
★松本製材工場(アポイ山麓公園) 【🚏❸番】
❸ 【明治44(1911)年】に、広島県生まれの松本比作が、様似村大字平鵜のポロサヌシュペ(アポイ山麓公園)で「蒸気機関の製材工場」をはじめた。
ここで、「箱材」を多量に作って函館に送り利益をあげた。
また箱材から出る半端雑材を燃料として「自家用の火力発電機」を据えつけた。
これは16燭光の電灯を20個点灯するだけの能力があリ、「日高では最初の電灯」となる。 非現存。
比作は「地域の教育」にも力を注ぎ、冬嶋小学校や僻地であるこの地に大きな投資をしたという。
当時、「松本御殿」とうたわれた邸宅の基礎跡が現存している。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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◎バス停◎「冬島」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❹番】
★冬島の穴岩(民話・伝説等) 【🚏❹番】
❹ 昔、エゾモシリ(蝦夷地)に「ウエンカムイ(悪神)」がいて、アイヌの人達をいつもいじめていた。
これを聞いたオタルナイ(小樽)付近の山にいた「ラッコカムイ(美神)」が、たいそう怒って攻めてきた。
敗走したウエンカムイが冬島の大岩の手前にきてうろうろしているのを、追跡してきた「ラッコカムイは、オンコの樹の弓によもぎの征矢を番えて射ると」、うまくはずされて、大岩にあったので大穴が開いてしまった。
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◎バス停◎「山中」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❺番】
★様似山道 【🚏❺番】
❺ 安永年間の頃から、東蝦夷地の近海を往来するようになった外国船に脅威した幕府は、北方警備と陸上交通の利便を図るために、「大河内善兵衛を指揮者とする調査隊」を派遣した。
調査隊の拠点を様似に置いて、直接調査にあたった近藤重蔵、最上徳内などの進言によって、「冬島~幌満間6,995mの行程」を、中村小市郎が工事担当者となり、【寛政11(1799)年】に官営道路として開削された。
当時の山道は粗末なもので遠回りであり、「高低曲折もはなはだしく」、そのため、波の穏やかな日は旧道の海岸を通り、山道はしだいに時化のときだけ利用された。
山道開通後の享和2(1802)年に「南部藩(浦河駐留)」が補修を行い、これまでより往来が容易になったが、利用は少なく荒天のみ重宝がられていたという。
その後、「シャマニ会所」が手入れを行ってきたが、明治2(1869)年、会所廃止後は修復することもなく放置されていた。
平成30(2018)年に「国の史跡」に指定される。
★原田宿跡 【🚏❺番】
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❺ 【明治7(1874)年】に兵庫県洲本市の旧藩士「原田安太郎幸孝」が様似山道の途中に経営していた「旅籠屋の跡」。
「土台石、石垣を組んだ跡」、当時使用していた徳利や炉の跡、耕作していた畑の跡が発見されている。
★明治時代のトンネル 【🚏❺番】
❺ 【明治24(1891)年】に様似山道下の通称日高耶馬渓と呼ばれている「冬島幌満間の第1期工事」で11箇所のトンネルが掘られた。
このトンネルを請け負い担当したのが、当時浦河に在住していた福井県の人「田中五郎右衛門」である。
現在は、道路開発によって幌満と冬島の2箇所だけに残存しているが、冬島では、「明治、大正、昭和と3時代のトンネル」が3つ並んでいるのが見られる。
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↓【3分】 ~~幌満(ほろまん)川~~~
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◎バス停◎「幌満」 / JRバス【様似町(市街以東)🚏❻番】
★日高製材合資会社、幌満川の橋 【🚏❻番】
❻ 【明治35(1902)年】に日高の豊かな森林に着目した長崎県の人高雄道徳が、「幌満川河口の左岸に一大製材所」を創設したもので、30馬力の蒸気機関を導入して製材を行った。
工場が盛んになるにつれて幌満地区は「急激に人口も増え」、発展した。
また、この工場の原木は、「幌満川上流オナルシベ(大泉)」で伐採され流送したために、作業員の中にはこの地に常駐するものも多くなったことから、その子弟たちのために事務所の一部を特別教授場として開設し、これが「大泉小学校」の始まりとなった。
「幌満川にはじめて架橋」されたのが【大正11(1922)年】で、木造の橋であった。
以来、昭和2年に架橋された天然石とコンクリ-トを巧みに利用した近代的永久橋。
昭和42(1967)年に国道ル-トの一部変更に伴って新架橋。
さらに平成10(1998)年、防災工事として行われた新トンネルとル-トの変更にあわせて「幌満大橋」が架設された。
「新旧の橋とトンネル」を見比べることができる。
★和助地蔵尊 【🚏❻番】
❻ 寛政11(1799)年、様似山道開削工事たけなわの頃、開削を手伝ったり、旅人の利便を図ったりするなどして、「人々から信頼を得ていた斉藤和助」が文久2(1862)年、91歳で亡くなった。
その後、部落民は、様似場所請負人近江屋藤五郎、幌泉場所請負人福島屋善四郎と相談し、白御影石に地蔵を刻んで、これを「和助地蔵」として建立し、永久にその遺徳を偲び、霊を慰めることとした。
最初は、渡し場のあった道筋に建てられたが、明治24(1891)年に海岸道路ができて「現在の場所」に移された。
昭和8(1933)年に「堂宇を改築」し、今の幌満の守護として毎年慰霊祭が行われている。
昭和44(1969)年に「様似町指定文化財」となる。
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「これより 【えりも町(岬以西)🚏❶~❿番】 へ」
(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎
→ ❶近浦 → 【❷えりも】 → ❸新栄 → ❹えりも郷土資料館 → ❺歌別 → ❻下歌別 → ❼西歌露 → ❽自衛隊前 → ❾油駒 → 【❿えりも岬】 →
★歴史文化資源一覧
★近浦稲荷神社 ★幌泉灯台 ★住吉神社 ★善生寺 ★法光寺 ★能入寺 ★郷土資料館ほろいずみ・水産の館 ★幌泉会所 ★歌別稲荷神社 ★歌露稲荷神社 ★東洋A、B、C、D遺跡 ★油駒稲荷神社 ★襟裳岬灯台 ★風の館 ★襟裳大菩薩の由来(民話・伝説等) ★豊国丸殉難者追悼碑
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↓【5分】
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◎バス停◎「近浦」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❶番】
★近浦稲荷神社 【🚏❶番】
❶ 【天保13(1842)年】に幌泉場所支配人「杉浦嘉七」が創立したといわれる。
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↓【3分】
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↓【8分】
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◎バス停◎「えりも」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❷番】
★幌泉灯台 【🚏❷番】
❷ 【明治24(1891)年】に現在の本町にあった灯台山の上に建てられた白四角形のコンクリ-ト造りの灯台で、町の開発が進むにつれて「灯台山が切り崩された」ことにより、昭和53(1978)年に撤去され、現在の「灯台公園に移設」された。
令和元(2019)年に「国の有形文化財」に登録される。
★住吉神社 【🚏❷番】
❷ 嶋屋佐兵衛が幌泉所場請負人に命ぜられたとき、漁場の安全を祈るため、【文化11(1814)年】に「住吉山に社殿を建立」したのが始まり。
明治31(1898)年に「現在地に本殿拝殿を移転」したが、大正9(1920)年に本殿内部が荒らされため、大正10(1921)年に整備し、大正15(1926)年に、松大鳥居が奉納され本殿を増築、昭和12(1937)年に「社殿を改築」した。
★善生寺 【🚏❷番】
❷ 【明治19(1886)年】に通称沢町に「説教所」を設けたのが始まり。 明治22(1889)年に公称した。
昭和10(1935)年に「現在の本堂」を建立し、昭和44(1969)年に、庫裏、鳳竜殿を新築した。
★法光寺 【🚏❷番】
❷ 「曹洞宗」小樽正法末寺。
【明治13(1880)年】に長浜恵流が設けた「説教所」が始まりで、明治15(1882)年に「寺院を建立」し、明治17(1884)年に公称した。
明治21(1888)年には、海上安全祈念のために信者の寄付により、竜神(威如王)を本尊とする金毘羅堂を建立し、また、「えりも岬の興国山迦葉院」を法光寺末寺とした。
明治23(1890)年に龍天護法善神を本尊とする「竜王堂」を信者の寄付により建立。
明治31(1898)年に「寺院を改築」したが、昭和14(1939)年に火災により全焼し、昭和16(1941)年に「復興」、昭和41(1966)年に位牌堂を建立した。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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↓【2分】
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◎バス停◎「新栄」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❸番】
★能入寺 【🚏❸番】
❸ 「真宗大谷派」本願寺末寺。
安政5(1858)年に徳善が「函館」浄玄寺境内に役寺能入坊を設置し、【明治11(1878)年】に本山教用止宿所と称して移転し、明治12(1879)年に「能入寺」と公称した。
大正5(1910)年に、台風のため再建し、昭和41(1966)年に老朽のため「改築」した。
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↓【1分】
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◎バス停◎「えりも郷土資料館」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❹番】
★郷土資料館ほろいずみ・水産の館 【🚏❹番】
❹ 「郷土資料館ほろいずみ」は、えりも町の自然、文化、歴史を紹介するとともに、調査研究し、郷土学習をとおして楽しく遊ぶため、【平成4(1992)年】に開館した施設。
「えりも町水産の館」に併設され、北海道の生い立ち、えりも町の自然と歴史、アイヌ風俗画「蝦夷一覧」、郷土芸能(駒おどり、岬神楽)などの資料を展示。
「幌泉(ほろいずみ)」は改称前の町名。
「水産の館」は、【昭和55(1980)年】に開館し、昆布産出量日本一であるえりも町の漁業について、「昆布を中心に展示」をしている。
「北海道と世界の昆布類の標本」、昆布の生態、昆布漁業、流通などを紹介。
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↓【2分】
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◎バス停◎「歌別」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❺番】
★幌泉会所 【🚏❺番】
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❺ 【寛政11(1799)年】に東蝦夷地が幕府の直轄なリ、油駒場所が幌泉場所と様似場所に二分された際、以前からあった「運上屋の名称を改めて会所」とした。
文化6(1809)年の文献では、会所の建物の他、「旅宿、板蔵、昆布取り小屋、厩舎、番船など」があったと記録されている。
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↓【0分】
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◎バス停◎「下歌別」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❻番】
★歌別稲荷神社 【🚏❻番】
❻ 【安政6(1859)年】に幌泉場所「杉浦嘉七」が創立したといわれる。
昭和20(1945)年に社殿を「改築」した。 保食神を祭る。
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↓【6分】
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◎バス停◎「西歌露」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❼番】
★歌露稲荷神社 【🚏❼番】
❼ 【弘化3(1846)年】に幌泉場所「杉浦嘉七」が創立したといわれる。 保食神を祭る。
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↓【4分】
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◎バス停◎「自衛隊前」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❽番】
★東洋A、B、C、D遺跡 【🚏❽番】
❽ 【米軍基地建設工事】の際、「多数の遺物」が発見される。
その後、航空自衛隊基地となり、「内部の遺跡」はほとんど壊滅。
「外部の遺跡」は草地改良事業工事で大半が破壊される。
「A地点」は、上ノ沢水源付近にあり、竪穴住居跡群で、円筒上層式土器、野幌式土器、石錐、石小刀などが発見されている。
「B地点」は、下ノ沢に注ぐ支流の水源付近。 竪穴が群在し、円筒上層式土器、石器類などが出土。
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◎バス停◎「油駒」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❾番】
★油駒稲荷神社 【🚏❾番】
❾ 【弘化3(1846)年】に幌泉場所支配人「杉浦嘉七」が創立したといわれる。 保食神を祭る
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↓【4分】
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◎バス停◎「えりも岬」 / JRバス【えりも町(岬以西)🚏❿番】
★襟裳岬灯台 【🚏❿番】
❿ 襟裳岬は沖合いまで無数の暗礁が散在し、春夏には濃霧に閉ざされ、「魔の海」と恐れられており、明治15(1882)年の英国船メリ-タサム号の難破により「英国政府の要請」などもあり、【明治22(1889)年】に設置された。
白円形のコンクリ-ト造りで、使用される「レンズ」はドイツ製の優秀なもので、当時の価格で一万数千円であったといわれる。
当時、「本道唯一の一等灯台」であった。
明治27(1894)年には霧笛信号設備を設置していが、「第2次大戦」によって、灯台に近接する燃料庫が爆発して、灯台は見る影もなく、「優秀なレンズも破壊」されたといわれる。
★風の館 【🚏❿番】
❿ 日高管内随一の観光地の「襟裳岬にあるメイン施設」であり、周囲の景観への配慮等から、岬の断崖の地下に建設されている。
ガラス張りの「屋内展望室」からは、日高山脈から連なる岩礁が岬の沖約2kmまで続く絶景を眺めることができる。
★襟裳大菩薩の由来(民話・伝説等) 【🚏❿番】
❿ エリモはアイヌ語でネズミと訳すので一名「ねずみ岬」というが、昔、襟裳岬一帯に白鼠が住んでいたためといわれる。
【天明(1781~)年間】、舟路が開けたくさんの内地人が渡航し、漁業に従事するようになった頃、岬に住んでいた「エリモミ-ランド」というアイヌの人が、暗礁地帯を老いた白ネズミにまたがり飛魚のように渉破する「十一面大菩薩」の姿をみて一意尊崇したところ、その後不思議なことがあった。
ある日、家の近くの暗礁の上に漂着した尊象を御堂を設けて奉祀し、以来その岩を神威岩といって聖所とした。
「子孫のエリモシロ-」が15歳の時、ある商船が沖合いで濃霧と時化にあい、万策尽きて襟裳様に祈願したところ、「十一面菩薩」が現れ、程なく海が穏やかになり難破を逃れたといわれる。
★豊国丸殉難者追悼碑 【🚏❿番】
❿ 昭和4(1929)年、乗員209人を乗せた「豊国丸」が函館を出港し、襟裳岬沖で座礁沈没し、78名が死亡行方不明となった。
昭和11(1836)年に「その追悼を目的」に設置されたが、平成3(1991)年の暴風雪で倒壊し、えりも町が修復。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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「これより 【えりも町(岬以東)🚏❶~❻番】 へ」
(再掲)◎最寄りの「バス停」一覧◎
→ ❶岬市街 → ❷百人浜 → ❸庶野 → ❹美島 → ❺咲梅 → ❻日勝目黒 →
★歴史文化資源一覧
★襟裳神社 ★法光寺末寺 興国山迦葉院 ★一石一字塔 ★庶野稲荷神社 ★當世武(とせっぷ)大明神 ★猿留(さるる)山道 ★目黒稲荷神社 ★豊似湖の神秘(民話・伝説等) ★ルベシベツ山道
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↓【1分】
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◎バス停◎「岬市街」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❶番】
★襟裳神社 【🚏❶番】
❶ 【文化11(1814)年】に島屋佐兵衛が漁場請負人になるとき、「岬の岩の上に建立」し、保食神を祭ったのが始まり。
明治8(1875)年には、立地条件が悪く祭祀に不便であるため「別の場所に移転」したが、村内に火災、悪疫が流行したので、神慮によるものと明治25,26(1892、1893)年ごろに「現在地に移転」された。
★法光寺末寺 興国山迦葉院(かしょういん) 【🚏❶番】
❶ 「曹洞宗でも日高最古のもの」と伝えられ、【文久元(1861)年】に曹洞宗説教所を設け道仙和尚が布教を始めたのが始まり。
道仙和尚の死後、何人かの僧が従事したが、「なにぶん不便なため」3年か5年で去り、明治元(1868)年に岩手県江刺郡田原村石原の人藤原一天和尚が説教所に住んだといわれ、明治21(1888)年に一寺を建立し寺号を「迦葉院」と定め、明治22(1889)年に北海道庁に申請し許可を得たもの。
明治30(1897)年に境内地の寄進を得て、明治35(1902)年に本堂を改築し、大正11(1922)年には法光寺裏山の寄進を受け、竜王堂を改築した。
「襟裳十一面観音堂」を建立し、襟裳さんとして信仰を集め、現在の襟裳神社の御神体となっている。
昭和10(1935)年に「本堂を新築」し、昭和11(1936)年には庫裏、納屋などを新築した。
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↓ 【1分】
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↓【5分】
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◎バス停◎「百人浜」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❷番】
★一石一字塔 【🚏❷番】
❷ 百人浜という名の起こりは、「昔、北海道警備に当たった南部藩の御用船が東蝦夷地に向かう途中、大時化に遭い、遭難し、乗組員100人余りがようやく九死に一生を得てこの浜にたどりついたが、それもむなしく飢えと寒さに苦しみ、ついに屍体となって砂中に埋まった。」とのいわれにより、その弔いとして様似等澍院の初代住職「秀暁」が妙法華経無量品第16巻の全文字を1石に1字ずつを書いたものを村人たちが埋め、その上に塔を建てたのが「一石一字塔」といわれる。
しかし、いくつかの伝承記録にから見た場合、「百人浜の由来」は、寛文9(1669)年シャクシャインの戦いのアイヌ惨殺説やその際に金堀100人余りを処刑したことによるものなど「諸説」あり、幕末期に船乗りの遭難やアイヌ民族の合戦などの説に変質したとも考えられる。
「一石一字塔」は、厳しい立地条件のため倒壊を繰り返し、大正12(1923)年に地元青年団により「同じ百人浜の中で移設され」現在にいたるが、埋納遺構や礫石経等の遺物は確認されていない。
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↓【10分】
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◎バス停◎「庶野(しょや)」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❸番】
★庶野稲荷神社 【🚏❸番】
❸ 【明治7(1874)年】創基。 保食神を祀る。
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↓【2分】
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◎バス停◎「美島」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❹番】
★當世武(とせっぷ)大明神 【🚏❹番】
❹ 幌泉場所請負人「杉浦嘉七」が願主。
トセップの東側が「小さな湾」になっており、強風が吹いた際、風待ちをできる場所であることから、江戸時代に帆船の関係者が「航海の安全を祈願」して、【慶應2(1866)年】に建立したのではないかといわれる。
この石碑には、「観音開きの石戸」がついていたが壊れたので、現在は周りに敷かれている。
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↓【4分】
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◎バス停◎「咲梅」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❺番】
★猿留(さるる)山道 【🚏❺番】
❺ ロシアやイギリス等の外国船が北海道近海を往来するようになり、北方警備と陸上交通の利便を図るため、【寛政11(1799)年】に「幕府が開発に着手」した。
大河内善兵衛が幕命を受け、最上徳内らが工事を担当して「猿留(現目黒)~幌泉(現えりも本町)間を開削した行程28kmの道路(旧道、通称重蔵山道)」で、明治中期に「庶野を通る新道(通称猿留山道)」が開削される。
徳内は丁寧な工事に努めたが、それに対して幕府が財政難などを理由に反発して徳内を解雇し、「急造」した。
その結果、ルベシベツ、様似山道とともに「粗悪で難儀」なものとなり、悪天候以外はほとんど利用されなかったと言われる。
現在、「約8kmが当時の様子」を残していることが確認されている。
平成30(2018)年に「国の史跡」に指定された。
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↓【5分】((えりも黄金トンネル))
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◎バス停◎「日勝目黒」 / JRバス【えりも町(岬以東)🚏❻番】
★目黒稲荷神社 【🚏❻番】
❻ 【天保13(1842)年】に幌泉場所支配人「杉浦嘉七」が創立したといわれる。 保食神を祭る。
★豊似湖の神秘(民話・伝説等) 【🚏❻番】
❻ この湖は【何千年も前】からあるといわれ、寛政10(1798)年に「近藤重蔵が千島から帰る途中」、幌泉から広尾の間に道を開こうとし探検した際、暴風のため部下一人が断崖から馬もろとも転落してこの湖付近で惨死し、今でも「馬蹄の跡を残している石」があるといわれる。
また、「湖辺にある塔」はその冥福を祈るためのもので、慶応元(1865)年には、福島屋の支配人紋蔵が「美津山大神を合祀」したといわれる。
その霊験によりここに参詣する人が次第に多くなり、「湖水を飲み体を清めその水を持ち帰って飲み干すと」長寿を保ち精神を潤してくれるという。
さらに、ここに参詣した帰りは必ず「雨か曇り」になるので、合羽を要しなければならないといわれる。
また、海の干満に合わせて「湖水も増減する」といわれている。
★ルベシベツ山道 【🚏❻番】
❻ 幕命で択捉島等を調査した近藤重蔵が悪天候で広尾に何日も足止めにあったので、通行に利便を図るため、【寛政10(1798)年】に自費で「広尾町ルベシベツからえりも町ピタタヌンケまで」約3里(11km)を開いた山道(通称重蔵山道)で、「北海道最初の道路開設」とされる。
近藤重蔵は、この時、「アイヌの人々を苛酷に使役」したため、恨みをかって危うく殺されかけたと言われる。
また、実際の作業の大半は「従者の木村謙次」が行ったと言われる。
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【これより 十勝管内 へ】
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(巻末1)「【日高三街道(国道)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」に係るポータルサイト等
1.優駿浪漫街道(国道235号線)
2.とんがりロード(国道336号線等)
「2.【とんがりロード(国道336号線等)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(浦河~様似~えりも)
3.沙流(さる)ユーカラ街道(国道237号線等)
姉妹編.日高の内陸(道道)
(巻末2)【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!
【当該サイトの主な掲載内容】
- 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
- 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
- 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
- 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
- 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
- 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
- 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
- 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
- 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
- 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
- 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
- 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
- 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
- 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
- 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
- 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」