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■ さきに当課では、次の3つの街道(国道)沿いにある「★歴史文化資源」を西から東へ順に掲載した「【日高三街道(国道)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」のページを公開しています。
- 「優駿浪漫街道(国道235号線)」(日高門別~新冠~静内~三石~浦河)
- 「とんがりロード(国道336号線等)」(浦河~様似~えりも)
- 「沙流(さる)ユーカラ街道(国道237号線等)」(日高門別~平取~日高)
■ このたびその続編として、日高の内陸(道道)沿いにある「★歴史文化資源」を西から東へ順に掲載しました!
(なお、「★歴史文化資源」は、平成13年(2001年)に日高支庁環境生活課が多数の文献から作成した「日高の歴史的文化活用資源リスト」をもとに、一部加筆修正して掲載しています。)
■ 本ページをご覧いただき、より一層「北海道・日高地方」に親しみを持っていただければ幸いです。
「胆振方面から 【新冠町★1~3】 へ」
★歴史文化資源一覧
★1太陽の森ディマシオ美術館 ★2新冠聖フランシス教会 ★3優駿記念館
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↓ 道道208(比宇厚賀停車場線)
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↓ 道道71(新冠平取線)
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★1 太陽の森ディマシオ美術館
● 【平成22(2010)年】に開館した美術館であり、フランス幻想絵画の鬼才「ジェラール・ディマシオ氏」や、ガラス芸術の巨匠ルネ・ラリック氏等の作品が、数多くの部屋に多数展示。
また、一番の見物は、高さ9m、幅27mの「世界最大の油彩画」であり、一定間隔で光と音による演出が行われる。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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↓ 道道71(新冠平取線)
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↓ 道道209(滑若新冠停車場線)
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★2 新冠聖フランシス教会
● アイヌの父と呼ばれた「ジョン・バチュラ-」が、アイヌの人々への伝道を目的に、【明治31(1898)年】に高江村に講義所として創設したもの。
その後、緑丘に移転したが老朽化したため、昭和53(1978)年に「新築」された。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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↓ 道道209(滑若新冠停車場線)
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★3 優駿記念館
● サラブレット牧場が連なる通称「サラブレッド銀座」の北側にあり、当地で余生を過ごした「名馬オグリキャップ」の優勝肩かけや記念品等を中心に展示。
館外には、オグリキャップの等身大の馬像のほか、当町で誕生した三冠馬ナリタブライアン等の「数多くの名馬の馬碑」がある。
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「これより 【新ひだか町(静内地区)★1~12】 へ」
★歴史文化資源一覧
★1皇祖神社、百年の赤松の碑 ★2稲田家屋敷跡の碑 ★3静内御殿山墳墓群及び遺物 ★4稲基神社 ★5北辺開拓の礎碑 ★6御殿山チャシ跡遺跡 ★7二十間道路 ★8「お登勢」の碑 ★9家畜改良センター新冠牧場(旧新冠御料牧場) ★10龍雲閣 ★11双川神社 ★12静内ダム
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↓ 町道
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★1 皇祖神社、百年の赤松の碑
● 「皇祖神社」は、【明治4(1871)年】当初、神社がなかったことから、静内開拓の祖、稲田邦植が神武天皇を祭神として奉祀したもの。
「百年の赤松」は、【明治6(1873)年】、稲田邦植の妹陽たちが渡道のため陸路静内に向かった際、青森県三本木で赤松の松かさをとって移住者に分け発芽したものといわれる。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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↓ 道道111(静内中札内線)
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★2 稲田家屋敷跡の碑
● 【明治4(1871)年】、開拓のため静内に移住した元徳島藩洲本城代家老「稲田邦植の屋敷跡」に建立された碑。
この屋敷は、邦植の弟稲田邦衛が長く居住し、大正15(1926)年まで姿を留めた。
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↓ 町道
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★3 静内御殿山墳墓群及び遺物
● 「静内御殿山墳墓群」は、静内川河口の北東約4.5キロにあり、【縄文時代後期から晩期】にかけての大規模な墳墓群で、積石墳墓となっており、昭和27(1952)年に発見され、約80の墓壙、人骨、土器、首飾り、櫛、石棒、土人形などの副葬品が出土し、昭和38(1963)年に「北海道の史跡」に指定された。
また、出土した土器は、土瓶のような注ぎ口のある注口土器で「静内御殿山式土器」と呼ばれ、その他の遺物とともに、昭和43(1968)年に「北海道の有形文化財」に指定された。
★4 稲基神社
● 「稲田家代々の祖先の霊社」。
「洲本市の稲田屋敷の裏」に祭られていたが、北海道移住とともに移された。
「現在の神社」は昭和61(1986)年に建替えられたもの。
★5 北辺開拓の礎碑
● 明治4(1871)年、稲田家主従546名が東静内に上陸、幾多の苦難を乗り越え開拓を行った偉勲をしのび、「北海道稲田会」が建立。
★6 御殿山チャシ跡遺跡
● チャシの溝は方形に掘られ、「川上流一帯と河口」を見わたせる。
松浦武四郎の東蝦夷日記に「金丁文四郎はメナプトに住し」とあり、「寛文9年蝦夷の乱に登場する金堀文四郎」がアイヌのチャシを模して設けたものと考えられ、【寛文9(1669)年】、シャクシャインは金堀文四郎を訪れた「オニビシを襲撃して殺害」。
北筒式土器、大狩部式土器が出土。
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↓ 道道111(静内中札内線)
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↓ 町道
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★7 二十間道路
● 直線で7km、幅36mの町道で、【大正5(1916)年】から3年を費やして道路の両側及びその周辺に「約1万本のエゾヤマザクラ」が植えられ、開花期には全国から多数の観光客が訪れる。
「旧行啓道路」、明治の御料牧場では「中央道路」といわれ、大正時代に通称「二十間道路」といわれていた。
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↓ 町道(二十間道路)
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★8 「お登勢」の碑
● 船山馨の小説で、明治の静内開拓を描いた「お登勢」がテレビドラマになったのを機に設置されたもの。
【幕末から明治維新】にかけて生きた「徳島藩家老稲田九郎邦植とその家臣の静内移住と開拓の物語」を描いたもので、登場人物のモデルの一人が「岩根静一」といわれる。
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↓ 町道(二十間道路)
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★9 家畜改良センター新冠牧場(旧新冠御料牧場)
● 【明治5(1872)年】、開拓使長官黒田清隆が牧馬改良のために門別町、新冠町、静内町に渡る「面積約7万haに及ぶ牧場」をつくり、そこに野馬を移牧したのが始まり。
この野馬は、文化2(1805)年に徳川幕府が開いた虻田、有珠、浦河の牧馬場とその分場が明治になって廃止され、一部が野生化したものといわれ、明治6(1873)年には「2,262頭の野馬」が集められた。
明治10(1877)年に、開拓使雇いの農業技師エドウィン・ダンが「面積を10分の1として縮小」し、新牧場を洋式の牧場として建築して牧場名を新冠牧馬場と定め、明治19(1886)年には宮内省御料局の所管となり新冠御料地に、明治21(1888)年には宮内省主馬寮に移管され「新冠御料牧場」と改称された。
この時、アイヌ約400人を奥地のアネサルへ「強制移住」させ、大正5(1916)年にはアネサルのアイヌ全80戸を平取町ヌキベツに強制移住させた。
昭和22(1947)年に農林水産省所管新冠種畜牧場、平成2(1990)年に「現在名」に改称し、現在は、乳用牛の改良増殖を行っている。
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↓ 町道
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★10 龍雲閣
● 農林水産省家畜改良センタ-新冠牧場用地内にあり、もと宮内省主馬寮に属する御料牧場内にあったので、「顕官名士の宿所」として【明治41(1908)年】に着工して翌年完成したもの。
「御殿造木造一部二階建」、屋根銅板葺き(当初は楢柾葺き、ついで瓦葺きを経る)、階下335㎡階上140㎡。
明治42(1909)年には「伊藤博文」の案内で当時の韓国皇太子李艮が、明治44(1911)年には皇太子のころの「大正天皇」などが宿泊している。
大正11(1922)年に宮内庁主馬頭伊藤博邦(伊藤博文の息子)が「龍雲閣」と命名したが、長い年月の間に荒廃が激しくなったので、昭和47(1972)年に「大修復工事」を行う。
「宝蔵物」として谷文晁の掛け軸、狩野探幽の屏風、伊藤博文 揮毫軸、伊藤博邦 揮毫額、その他 皇族使用の家具・食器・馬具などを有するが、建物内部は通常一般公開されていない。
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↓ 道道111(静内中札内線)
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★11 双川神社
● 静内川上流、「双川の中島」にあった。
シベチャリ川「砂金採取の鉱夫たち」が水神を奉ったものと伝えられる。
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↓ 道道111(静内中札内線)
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★12 静内ダム
● 「日高電源一貫開発計画」に基づき、【昭和41(1966)年】に完成した発電用ダム群の一つであり、出力4.6万kw。
上流に完成した「揚水発電所」の高見発電所(出力20万kw)の下部調整池としても利用されている。
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↓ 道道111(静内中札内線)
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「これより 【新ひだか町(三石地区)★1】 へ」
★歴史文化資源一覧
★1三石山円昌寺
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↓ 道道1025(静内浦河線)
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↓ 町道
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★1 三石山円昌寺
● 【明治30(1897)年】創基。 「真言宗東寺派」。
「神奈川県円昌寺」を移転、本堂庫裏などを建立。
昭和24(1949)年に庫裏を新築たが、昭和30(1955)年に本堂、庫裏「全焼」し、庫裏を新築した。
本堂は昭和38(1963)年に「新築」し、昭和47(1972)年に八十八ヶ所堂宇を改築した。
さらに昭和52(1977)年、53(1978)年に本堂、庫裏を「改築」して位牌堂を新築した。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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「これより 【浦河町★1~3】 へ 」
★歴史文化資源一覧
★1JRA日高育成牧場(旧日高種馬牧場) ★2日高種畜牧場メモリアルホール ★3西舎神社
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↓ 道道1025(静内浦河線)
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★1 JRA日高育成牧場(旧日高種馬牧場)
● 時の浦河支庁長西忠義の奮闘により、【明治40(1907)年】に「内閣直属の種馬牧場」として発足し、その後、陸軍省、農林省の所管に変わり、昭和21(1946)年に「日高種畜牧場」と改称され、種馬の改良増殖に携わり、馬匹改良の中心的役割を果たしてきた。
しかし、その後の畜産情勢の変化により、昭和40(1965)年から乳用雌子牛の集団育成事業を開始して、「馬の時代から牛の時代に転換」し、受精卵移植事業など新しい繁殖技術の開発とそれらの普及指導を行ってきたが、平成元(1989)年の行政大綱を受けた種畜牧場再編整備計画により【平成5(1993)年】に廃止され、「中央競馬会に譲渡」された。
★2 日高種畜牧場メモリアルホール
● 【明治40(1907)年】に、現在の日本中央競馬会日高育成牧場が、日高種馬牧場として創設された際に、その管理事務所として建てられたもので、現在は「メモリアルホール」として保存され、牧場開設の歴史や牧場の役割とその業務などを展示している。
(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!
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↓ 国道236号線(天馬街道)
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★3 西舎神社
● 福島県の相馬中村神社の祭神で牛馬守護の神である天御中主神の分霊を奉祀し、「西舎妙見神社」としていたが、大正15(1926)年に、新冠牧馬場御用掛で日高種馬牧場の設置に貢献した藤波言忠の霊を産馬功労の神として合祀し「藤波神社」と改称した。
【昭和28(1953)年】に日高の開発に貢献した「西忠義」を祀る浦河神社内の西神社を合祀する社殿を建立し、「西舎神社」とした。
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「西へ【静内方面】、東へ【えりも方面】、北へ【十勝方面】」
(巻末1)「【日高三街道(国道)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」に係るポータルサイト
1.優駿浪漫街道(国道235号線)
2.とんがりロード(国道336号線等)
3.沙流(さる)ユーカラ街道(国道237号線等)
(巻末2)【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!
【当該サイトの主な掲載内容】
- 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
- 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
- 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
- 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
- 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
- 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
- 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
- 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
- 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
- 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 ×2021年現在写真集!」
- 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
- 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
- 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
- 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】×2021年秋現在写真集!」
- 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
- 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」