【ピンポイント】で日高の歴史が理解できる!「【分野別/概略版】日高のあゆみ~日高支庁百年記念誌~」

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●「日高のあゆみ~日高支庁百年記念誌~」は、日高支庁(現日高振興局)の前身の浦河支庁が開設され、満百年を迎えるにあたり、その記念事業として、日高の発展の経緯を明らかにするため、昭和48年(1973年)3月に発刊されたものです。

● それから約半世紀近くの時が過ぎ、令和の時代になっても、それ以前の過去の歴史から学ぶべき点が多いと思われますが、約400ページの大冊なので、次のページに、「要点のみを箇条書きにしてまとめましたもの」を掲載しております。

● しかし、それでも文量が多いため、このたび、「さらにピンポイントで分かりやすいように、上記を次の10の分野に分割して」、下記のとおり掲載いたします!

❶.行政等、❷.農業、❸.畜産業、❹.漁業、❺.林業、❻.商工業、❼.鉱業、❽.交通・通信、❾.警察等、❿.教育

● なお、次をクリックしていただくと、「同誌の全文を掲載したページにリンクしますので」、申し添えます。

【 ❶.行 政 等 】

第二章(明治以前) 二 場所

【 前松前藩管領時代 (1590年(天正18年)~1798年(寛政10年))】

・「場所とは、蝦夷地の漁場とその住人の総称で」、松前藩は藩士に各地漁場を分割し、やがて藩士は場所交易の独占権を商人(場所請負人)に委託。

【 前幕府直轄時代 (1799年(寛政11年)~1820年(文政3年))】

・幕府が対ロシア北方警備のため、「蝦夷地を直轄地とし、場所請負人を廃して運上屋を会所と改め」、浦河に南部藩兵三百人を駐在させる。  また、幕府は道路・橋梁を設け、産業を奨励したので諸事大いに面目改める。

  沙流場所、新冠場所、静内場所、三石場所、浦河場所、様似場所、幌泉場所

【 後松前藩時代 (1821年(文政4年)~1854年(安政元年))】

・ロシア問題の一応の解決から、「幕府は全蝦夷地を松前藩に還付するも」、幕府時代に進んだ拓殖は衰え、防備も不十分となる。

【 後幕府直轄時代 (1855年(安政2年)~1867年(慶応3年))】

・米国と和親条約を結び下田・箱舘の二港を開港。  幕府は、「福山付近以外の蝦夷地を直轄して箱舘奉行が管轄し」、奥羽六藩(仙台・秋田・南部・会津・庄内・津軽)に分領防衛させる。

第三章(明治元年~18年) 一 開拓使の経営

1 命名日高国

・1869年(明治2年)に蝦夷を改め、北海道と称し、「十一国八十六郡に分割し」、国名・郡名を定める。

・日高の七場所は七郡となり、「日高国と称した」。  名付親は松浦武四郎。

・七郡を「藩寺の支配とした」。

  沙流(仙台藩・彦根藩)、新冠(徳島藩)、静内(増上寺)、三石(開拓使)、浦河・様似(鹿児島藩)、幌泉(開拓使)

・1871年(明治4年)に実績が挙がらない分地策は廃止され、「日高は札幌の開拓使の管轄となる」。

・温暖な気候に水産資源が豊かな「日高に安住希望するものが多くなる」。

・「移住民への扶助法も期せられ」、浦河郡西舎に長崎県、杵臼に熊本県の農民、東静内に淡路稲田の家臣、新冠に滋賀、門別に仙台・淡路・彦根の士民が移住。

2 行政機関の推移

・1872年(明治5年)に「開拓使浦河支庁を設置し」、幌泉海関所を廃し、浦河支庁幌泉出張所・静内出張所・広尾出張所・門別出張所を設置。

・1874年(明治7年)に「浦河支庁を廃し、札幌本庁直轄とし」、1876年(明治9年)に浦河・幌泉・静内の三分署設置。

・1875年(明治8年)に「日高管内最初の戸長役場が三石に開設され」、戸長は警察官を兼務。

・1879年(明治12年)に「郡役所を設け」、日高は東西に分治され、三石西四郡と十勝七郡を管轄する郡役所を浦河に設置し、静内以西沙流・新冠の諸郡管轄の郡役所を胆振国勇払に設置。

・1880年(明治13年)に「各戸長役場が開設」。

・「この制度は」、1897年(明治30年)に北海道区制一二級町村制が発布され、郡役所を廃し、浦河支庁復活まで継続。

同 章  二 札幌県の日高

・1882年(明治15年)に開拓使十年計画終了により開拓使を廃し、「新たに函館・札幌・根室の三県を設置」。  日高は札幌県所轄となる。

・しかし、「統一と連絡に欠け」、開発事業は予想外の不振を極めた。

第四章(明治19年~明治45年) 一 時運の発展

・主要事項の年譜を追って「この期のあゆみを知ると同時に」行政を展望。

【町村制施行前】

・1886年(明治19年)に三県一局を廃して「北海道庁」が置かれる。

・1887年(明治20年)に浦河郡役所は、静内以西の三郡役所(静内、新冠、沙流)を合して「現在の日高七郡を管轄」。

・1888年(明治21年)に「浦河警察署が創立」。

・1897年(明治30年)に「各税務署新設」となり浦河にも設置。  また、北海道区制及び一、二級町村制公布され、郡役所を廃し「十八支庁を置く」。  浦河郡役所を廃して明治7年廃止の「浦河支庁を再び置き」、浦河郡十一ヶ村は支庁直轄となる。  (他の六郡に五戸長役場あり)

・1899年(明治32年)に「旧土人保護法公布」。  また、門別村外十七ヶ村戸長役場を分離し、「平取村八ヶ村戸長役場」を平取市街に設置。

・1900年(明治33年)に浦河支庁直轄事務を「浦河村外十ヶ村戸長役場に移す」。

・1901年(明治34年)に「西忠義が浦河支庁長となり」、日高開発が推進され、種々施策が軌道にのる。

【町村制施行後】

・1902年(明治35年)に北海道二級町村制公布。  「浦河に二級町村制施行され浦河村と称し」、自治行政に一新時期を画した。

・1906年(明治39年)に「三石、様似、幌泉三ヶ所に二級町村制施行」。

・1909年(明治42年)に「静内、門別両村に二級町村制施行」。

同 章  二 西忠義翁の治績

・1901年(明治34年)6月に浦河支庁に赴任し、「在職八年三ヶ月にわたり日高開発のため全力を傾注」。

・日高国標を作り前途の指針を明示したほか、「日高振興の八大政策を打ちたて」道路や橋梁を改修して交通の利便を図り、漁港の施設等、運輸の利便に意を用い、また産業の奨励に専念。

・特に産馬の改良を期して「日高種馬牧場の設置を実現し」、共進会を催して生産を奨めるなど、日高をして馬産地としての地位を高めた。

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第五章(大正以後) 一〇 地域の健康

1 保健衛生

・歴史を辿ると日高の衛生思想の普及及び向上に努めるため、1902年(明治35年)に「浦河に衛生会が誕生しており」、当時としては衛生文化もかなり高い水準にあったものと想像される。

・1944年(昭和19年)に「浦河保健所」が、1949年(昭和24年)に浦河保健所支所が静内町に設置され、1955年(昭和30年)に「静内保健所」が設置された。

・日高管内全町村の家畜衛生行政は、1950年(昭和25年)設置の「日高家畜保健衛生所」が担当、1952年(昭和27年)に門別、1954年(昭和29年)に静内に家畜衛生所が設置されたが、交通網の整備などにより再び合併し、1966年(昭和41年)に家畜保健衛生所となる。

2 医療

・医療従事者は、医師数、薬剤師数、看護婦数、準看護婦数において特に充足率が低く、「如何に日高が医療面において後進地域であるかが分かる」。

・浦河町においては「日赤総合病院」が中心病院としての役割を果たしているが、静内以西には中心病院が欠如している現状である。

同 章  一七 計画と開発

・「北海道第一期拓殖計画」が樹立されたのは1910年(明治43年)で、その内容は、植民・産業・道路・橋梁・土地改良・河川港湾に対する莫大な計画であったが、明治末期からの不況等により事業の進捗は大きく妨げられた。

・「北海道第二期拓殖計画」が樹立されたのは1927年(昭和2年)で、時を同じくして凶作と不況のほか、満州事変以降は、北海道への移民は満州に吸収された上、戦争経済が一層進み、北海道の拓殖もまた戦争対策に切り換えを余儀なくされ、根本的な計画の立て直しの必要に迫られた。

・こうして第二期拓殖計画の主眼とする土木事業、植民は完全に不振を極め、「道路・河川・港湾事業は計画の半ばにも達せず」、森林経営の合理化も、農畜・水産等の基本施設も全く未完成に置かれた。

・1950年(昭和25年)の北海道開発法により、「国の行う開発事業は北海道開発庁が担当することになり」、道の立案した開発計画を基礎として、北海道総合開発第一次計画を樹立した。

・これは投入資金から見れば、「十分発揮しえなかった感はあるが」、相当成果が上がっていることは明らかである。

・「日高総合開発期成会は」、日高地域の総合開発の促進ならびに産業経済の振興、住民福祉の向上を目的とし、懸案事項の解決を図るため、道の総合開発計画を中心として日高管内の開発を強力に推進する機関であって、常に日高支庁、日高町村会及び関係諸団体と緊密な連携の下に活動している。

・「日高広域生活圏計画は」、経済的・社会的に密接な関係をもつ日高管内九町が自主的に日高広域生活圏を形成し、中心市街地と周辺農村漁村が一体として魅力ある生産と生活の場を創造するための開発の方向と主要な施策を明らかにしたものである。

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【 ❷.農 業 】

第二章(明治以前) 三 風土に育成

・「日高の河畔低原は肥沃だが」、下流は砂地、泥炭地が見られる。

・「丘陵高原は、概して地味は良くなく」、西部は火山灰に被われ、農耕より牧場に適す。

・雨は秋期に最も多く、夏期がこれに次ぎ、「積雪は少ないため」、冬期は牛馬放牧に適する。

・前松前藩時代は、アイヌは昔から稗・粟等を作っていたが、「漁業使役のため農耕禁止とされ」、和人も漁業にたよる。

・前幕府直轄時代は、「諸藩兵が駐屯地付近を開墾し」、アイヌに対しても農業奨励。

・後松前藩時代は、「墾田は荒廃地と化したが」、蝦夷地の稲作はある程度普及。

・後幕府直轄時代は、「西洋技術を輸入して」農業奨励に努力。

第三章(明治元年~18年) 三 燃える拓魂

・ロシアに対する軍事的防衛、及び士族等に対する救済策として、移民を移住させるのが先決問題であったが、開拓使の十年計画の推進と農業・牧畜に洋式技術を導入するも、「開拓は容易に進捗を見せず」。

・当時は開拓気運が熟しておらず、移住したうち長崎・熊本・稲田の家臣以外は、「概ね離散してしまい」、留まるものは少なかった。

・その後に移住するものがあったが、団体移住と呼べるのは1881年(明治14年)の「赤心社以外になかった」。

同 章  四 伸びゆく農業

・北海道に新しい欧米技術を導入して、「内地農法にかわり大農法を行う計画は」、開拓使政策として一貫して、後に北海道農業に大きな影響を与える。

・しかし、開拓使、三県の両時代の産業開発は、農業に重点を置きながらも「依然として漁業が中心的位置を占め」、言わば北海道は採集経済が主力をなしていた。

・「従ってこの時代の農業展開は極めて緩慢で」、むしろ北海道農業が将来益々発達しうる可能性のある徴候を示そうとした段階であった。

第四章(明治19年~45年) 三 生産豊かに

2 農業移民の実状

・この期は日高地方にも「農業移民が次々入って来た」。

・明治30年頃には「木材業が盛んになって」、冬期は馬と一緒に働くこともできたので、開拓者の生活の大きな助けとなった。

・1997年(明治30年)末の調査によると、「人口は二万一千五百余人」で全道人口の千分の二十八。

・「うちアイヌの数は六千三百余人」とアイヌの割合が他国より多い。

・「出生地により区分すると」、アイヌおよび淡路国の移民が最も多く、陸中(岩手)陸奥(青森)越中(富山)諸国がこれに次き、その他奥羽地方、北陸道諸州および讃岐、阿波、安芸、但馬諸国の人が相雑っている。

3 農業経営

・「開拓地は河川流域の肥沃地が選ばれるも」、密林となっているので、伐木に苦心続けた。

・「草原や疎林地帯は畜力農具で容易に大地積の経営が可能だか」、土地改良と肥培が必要となる。

・日高は本道の中で「馬耕が最もよく普及した地域」。

・日高開拓の歴史は古く、「農家仕込の法が円滑に行われたので」、農家は容易に馬匹機械を購入できた。

・しかし、「従来の習慣に甘んじて施肥を怠り、輪作をすることもなかったため」、地味が衰え収穫減少は免れなかった。

・「日高には大農場も少なく」、百万坪以上の耕地を所有するのは僅かに赤心社のみ。

・しかし、農家の自作者、小作者の土地の分配からすれば、「本道ではややよい部類に属していた」。

・「農家の販売する作物は殆ど大豆、小豆に限られ」、その他の作物は自家用とし、農家は漁場の風習と同じく、年内の需要品、例えば肥料、食料、衣類、日用雑貨等は殆ど現金で買うことが少なく、概ね単独または連帯して出来高の農産物を担保とし、近傍の市場の商家と契約を結び通帳をもって購入し、「これを仕込といった」。

・「日高のように農業仕込の法が円滑に行われることは」おそらく他に例を見なかった。

・このことは、「いたずらに農産物取引を彼等の手中に収めさせ」、その結果は農産物の相場の高低が彼等の思うままになる等の弊害をもたらした。

第五章(大正以後) 二 拓土の拡大

1 開拓開墾

・1910年(明治43年)に「第一期拓殖計画が樹立し」、土地改良及び排水工事を図ることを見込んだ。

・1927年(昭和2年)の「第二期拓殖計画においては植民費がくまれ」、このうち移住奨励費が重要なものとなっている。

・北海道への移民は開拓時代迄は殆ど官の保護移民で、明治20年代以降は資本家や先着者の誘導によって来往した自由移民であったが、「大正末期からはそれも限界に達した」。

・新たな移民の収容地は、奥地や泥炭地、火山灰地など放置されていた土地が多くなり、「保護移民によらなければ到底定着は困難となった」。

・「農業の近代化は機械化することであり」、第一次大戦を契機としてこの方向は急速に推進された。

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2 農地改革

・全国一の高率で小作地と不在地主をもつ北海道は、「戦後の農地改革により、耕作地の再分配と小作料の適正化により、多肥料、機械力をとり入れた農業に進み」、本道農民の生活水準も向上した。

・さらに1952年(昭和27年)からの「北海道総合開発計画の重点事業の一つとして土地改良が進められ」、日高管内においても土地改良が大いに進められた。

・農地制度改革の中心的機関として担当するのが「農地委員会(現農業委員会)である」。

3 農業団体

・生産性向上のため、土地改良及び品種改良、施肥、栽培指導、さらに、農機具導入、農家経済上昇等を図って「農業経営の合理化を促進する団体」。

  農業協同組合、農業共済組合、農林省帯広統計事務所、農林省北海道食糧事務所出張所、日高支庁農業改良普及所

・1961年(昭和36年)に「農業基本法が制定され」、同法の精神に基づき、農業構造改善事業が適地適産を前提として主産地形成を図り、大規模で高生産性の自立経営農家の育成を目標に、「国が多額の補助と融資を行い」、基盤の整備、施設の近代化を進めている。

【 ❸.畜 産 業 】

第二章(明治以前) 五 日高馬の来歴

・「日高の馬の来歴は」、1789年(寛政元年)に馬は舟で室蘭に送られ、様似までの運搬に使われた。

・「はじめて馬を見たアイヌ達は」、おそれて逃げ出すこともあった。

・幕府は会所に駅馬を備えるようになり、「馬産政策を次第に整え」、有珠・虻田に馬牧場を開設。

・様似にも開設しようとするも適地がないため、1858年(安政5年)に「元浦河に牧場開設」。

第三章(明治元年~18年) 五 ケプロンの意見 ダンの指導

1 創業期の牧場

・開拓使は、「牧畜についてもケプロンの計画に基づいて」、良種を海外から輸入し、東京、七重、札幌、根室、真駒内、新冠の各牧場で飼育して、改良普及を図った。

・指導の任で業績著しかったのは、「新冠牧場を設計したエドウィン・ダンであった」。

・1872年(明治5年)に開拓使は、「新冠、静内に跨がる二億万坪の牧場の開設を決め」、元浦河馬牧を廃した際に民間に貸与した馬や、野馬を各地から駆集し、木柵を作り収容した。

・その後同牧場は宮内省所管となり「御料牧場と称した」。

2 畜力農具と牛の飼養

・また、開拓使は、資金貸与等により「民営牧場も開設させた」。

・開拓使の農政の根底は、「牧畜政策であったので」、畜力農具使用の大農経営が扶植され、馬の増殖は、馬耕用の必要によるものだった。

・しかし、「新農具のとり入れは」、資本が乏しく教養低い一般農民には、並たいていのことではなかった。

第四章(明治19年~45年) 四 畜産の推移

1 概況

・本道、殊に太平洋沿岸は気候的条件から年間放牧可能だが、「広い面積を短期間で耕作する必要から」、畜力は絶対に必要である。

・「さらに有機質肥料として農耕地の地力を維持培養するため」、畜産は本道農業と高く結合しなければならず、早くからアメリカの経営方式を導入したのもそのためで、この方式は畜力馬耕作業による牛飼養を主とするものであった。

2 軍需と馬産

・本道農業が大きく転換したのは、1886年(明治19年)の道庁設置以来のことで、「北海道土地払下規則が施行されたため」、大土地所有の道も漸く開かれた。

・殊に家畜の力点が、「牛から馬へ移行したことは」極めて重要であった。

・このことは、世界各国の軍備増強の動きとともに、「軍馬の需要が拡大され」、1887年(明治20年)以降に民間の所有馬の増殖が図られるようになった。

・「新冠牧場は」、最初から馬匹の改良を目的として南部種馬又は洋種を入して漸次改良を図る一方、「民間では」、無目的に繁殖させる状況にあったが、販路が広まるに従い、改良の必要を痛感して、漸次良馬を生産するようになった。

3 日高牛の実情

・「日高の牛の数は」、1897年(明治30年)末には、総計459頭で所有者は十名前後。

・乳の需給について日高の牧場では、明治30年頃に「浦河及び幌泉で僅かに搾乳が行われるのみであったが」、酪農の基盤はこうした段階から次第に培われていった。

第五章(大正以後) 三 牧場開放問題

・新冠御料牧場は静内、新冠両郡にまたがり、特に新冠の民有地は高江付近のわずかに過ぎず、「他はほとんど御料地に小作として生活するのが当時の住民の状態だった」。

・大正時代、「日高管内を挙げ解放運動を推進したが」、1931年(昭和6年)の満州事変を契機に太平洋戦争に突入し、解放問題も停頓した。

・戦後、新冠御料牧場は、村当局と民間団体の協力により、1947年(昭和22年)に農林省に移管され、新冠種畜牧場と改称し、「新冠町内の牧場地は全面的に解放され」、明和・太陽・大狩部等に開拓農家の入植がはじまった。

同 章  四 牧場の経営

1 軽種馬王国の礎

・軍馬需要により明治末期から大正にかけて馬産経営が数を増し、「市場は拡大され」、馬産は安定して順調な経過を辿った。

・馬産の自然的環境に恵まれた太平洋沿岸に馬の育成が発達したので、「日高は乗用として軽種」、十勝・釧路は実用馬としての重種に馬産の中心がおかれた。

・1923年(大正12年)に「新たな競馬法が制定され」馬券の販売が公認されると、サラブレット生産熱が著しく高まり、1936年(昭和11年)に「日本競走馬会が発足して」、競馬は年々飛躍的な発展を見せた。

・1948年(昭和23年)には「新たに競馬法が定められ」、従前の公認競馬を国営、地方競馬を地方公共団体の直営として再出発し、1954年(昭和29年)には、民間競馬関係者の世論により「国営は民営の日本中央競馬会に変わって」現在に至る。

2 日高風物詩、馬市

・1910年(明治43年)に「家畜市場法が施行されると」、各地に家畜市場が設けられ、1912年(大正元年)には常設、定期、臨時と三十五ヶ所を数えたが、このうち馬市場は三十ヶ所を占める。

・1949年(昭和24年)に「家畜商法が定められ」、日高管内では例年馬市が浦河、静内、門別の市場で開催されている。

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3 牛の増加

・「牛の分布は道庁時代の民有牧場成立後から全道的に拡大するが」、1913年(大正2年)頃の日高地方では極めて微々たるものだった。

・「本道酪農政策が本格的に展開された契機は」、1927年(昭和2年)以降における第二期拓殖計画である。

・この計画に基づき、「荻伏村に酪農組合が組織され」、後に製酪所は北海道連合会の分工場となり、雪印乳業(株)荻伏工場として大きく発展していく。

【 ❹.漁 業 】

第二章(明治以前) 二 場所

・「鮭漁業は河川主体で」、沿海は建網漁業が発達した文化(1804年~)の頃から。  河中に棒を立てても倒れなかったと、豊かな鮭漁が今なお語り草。

・アイヌ部落の漁業権は厳格だったが、和人の大規模な曳網漁業により、「主導権は和人に掌握され」、1669年(寛文9年)の蝦夷の反乱の間接的要因となる。

・「日高昆布の分布は」、広尾から静内までが一区域をなし、襟裳岬付近が最も繁茂。

・特筆すべきは沙流場所請負人「山田文右衛門の投石による昆布場開設であり」、人工的に水産資源増殖を図ったのはおそらくこれが最初で、日本産業史上注目に値する。

・「いわし漁は」、勇払沿岸は平坦広闊で本道一だが、東方日高に進むにしたがって良漁場なし。

第三章(明治元年~18年) 六 漁業のあゆみ

・「場所請負制度の全廃」と旧漁業制度の廃止は、開拓使による数百年の慣習の打破である。

・この一大改革により、漁民は自由に漁業に従事できるようになり、移民増加と相まって「漁業者が著しく増えた」。

・明治期に入り、「鮭は鰊に次ぐ漁獲物として盛況を極めたが」、その要因は、建網漁業が発達し、河川よりも海から多量に漁獲するようになったため。

・北海道の昆布は、鮭とともに鰊に次ぐ重要な海産物であり、「開拓使当時の日高、特に幌泉は昆布場所として有名で」、開拓使も特に力を入れた。

・しかし、当代の昆布採取業者のうち日高の専業者は小営業者に多く、十中八九「仕込金融を受けていた」。

第四章(明治19年~45年) 五 漁業の実態

・1887年(明治20年)に「水産税は軽減され出港税は廃止となり、さらに日本昆布会社の資本貸与等」もあって漁業は著しく進歩してきた。

・1897年(明治30年)の「日高の漁業状況は、幌泉郡が最も多く」、浦河・静内・様似・三石の四郡が次ぎ、沙流、新冠の二郡が最も少なかった。

・「水産物の中で最も多額を占めたのはかれい類で」、次いでさけ、いわし、こんぶであった。

・「いわし漁は」、1897年(明治30年)年頃に著しく発達して主要な産物となり、建網、曳網によって漁獲した。

・「本道のさけ漁業の隆盛は」1892年(明治25年)前後まで続き、1885年(明治18年)に小林重吉がさけの減退を憂い、孵化事業を試みたが結果は良好でなかった。

・現在日高でかつおは獲れないが、1897年(明治30年)前後の沿岸漁業の不振に伴い、沖合漁の発展を見ると、「日高近海ではかつお釣がさかんになった」。

・交通不便な日高では販路に苦慮した末、「かつお節を製造したが」、明治終わりから大正にかけかつお漁も次第に不振となった。

・かれい漁業は、文化(1804年~)の頃、様似、幌泉において搾粕に製したこと以外はしばらく産出を見なかったが、1887年(明治20年)頃から「再び幌泉で粕の製造が始められると急速に進歩し」、二、三年来著しくその産額を増し、かれいは1897年(明治30年)の水産物漁獲高の首位を占めている。

・「にしんは」、近年絶えて群来することない。

・「昆布は日高の東部は豊富であるが」、西部はこれに及ばない。

第五章(大正以後) 五 生産と資源

1 漁船

・日高沿岸の漁場には、えりも魚田と浦河沖合の魚田があり、近海には昆布の生産も多いが、「使用する漁船は概ね小型で」、大正末期まで殆ど無動力のものだった。

・1924年(大正13年)に浦河港に発動機付漁船が現れ、次第にその数を増し、1933年(昭和8年)頃には「発動機船二十余隻を数えるに至った」。

・今後は海洋漁業の発達に伴い漁場も拡大されたため、「沖合操業を主とする漁業経営の確立を図ることが大切である」。

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2 沿岸漁業と漁村

・明治以来、「漁村は封建性の濃い保守的な社会を形成し」、今日なおその伝統の香りは消え失せていない。

・大正期は未曾有の好景気だったが、その陰には悲惨な搾取と虐待がつきまとい、資源減少と狭い水域での操業、「資本の乏しさで漁船を動力化する力もなかった」。

・それだけに漁村更正は近代経済組織を漁村中心に作らねばならず、「ここに誕生したのが漁業組合である」。

・1938年(昭和13年)には、沿岸漁業の徹底的統制の意味で、「全国漁業組合連合会が結成され」、組合員のために共同施設や漁獲物の共同販売、用品の共同購入から信用業務に至るまで、漁村経済の建て直しに努力した。

・1949年(昭和24年)に漁業制度が全面改革され、「従来の漁業権を全面的に消滅させ」、漁民層から選出された漁業調整委員会に委ねた漁業調整によって、新たに漁業権を免許し直した。

・しかし、明治から大正期にかけての華やかな漁獲は、今は全く減少し、往事を回顧しつつ「資源の乏しさをひしひしと感じさせる」。

・全盛の時代は次第に沿岸から遠ざかり、「漁法の転換、漁船の大型化が次第に考えられるようになり」、資源を遠く海洋に求めようとの気運がもり上がりつつある。

3 資源と増殖

・海流その他の自然条件に支配されて、回遊路やその範囲が変化したことにもあるが、乱獲或いは適正漁獲量が守られず、殊に汽船トロール漁業や汽船底曳網漁業は漁場の魚群を根こそぎ獲ってしまう「濫獲振りで資源を枯渇せしめるに至った」。

・こうした現状から認識すべき問題として「繁殖保護があり」、豊凶の変動を出来るだけ小範囲に止め、最大限繁殖を図るというものである。

・「政府や漁業者によってなされた方策をよく研究し」、地域の実情に即した施策がなされるべきである。

【 ❺.林 業 】

第二章(明治以前) 六 原始の森

・アイヌの生業が漁猟なので、海岸・河川と同様に「森林は彼等の生活の基盤をなす」。

・旧記によると、1800年(寛政12年)にアポイの五葉松で「十余隻の大船を建造したといわれるが」、和人の本格的移住までは、森林は原始の姿を殆ど変えず。

第三章(明治元年~18年) 七 開拓と伐採

・開拓使時代に入っても、藩政時代の林政方針を踏襲して、「伐採禁止令を出し」、山火を厳戒し山林の保護に努めた。

・林業は次第に発展し、開拓使末期には「その制度も整備されたが」、北海道の開拓は林業と相反する関係と考えられた。

・開拓当初は、交通不便のため、「開拓で伐採された林木は利用されることなく」、焼却するか腐朽にまかせていた。

・えりものような漁村では、多量の漁具、船材、製漁用の消費が莫大で、「海岸付近の山は濫伐となり」、漁業発達に伴い荒廃していった。

・土地制度確立に伴い、「大部分の土地が官有地となったので」、殆どの山林は官有林とされた。

・「私有地に転化可能な国有地になったことは」、山林が分割開放され、内地と違う植民地的な林業史を形作っていった。

・「森林の伐採量を地域的に見ると」、農業開発の進んでいた渡島、後志、石狩の三国が最も多く、総伐採量の六割から八割を占めていた。

・しかし、「専業の木材業者は」まだ存在しなかった。

第四章(明治19年~45年) 六 うるわしき森林造成

1 山林管理と林政改革

・1884年(明治19年)に北海道庁の新設により、「山林事務は農商務省から道庁に移管され」、日高は本庁直轄の関係上郡区長に委ねられた。

・林政面で明治20年代は北海道林業の創業期で、「法制を整備したことと」木材商業資本の進出が次第に見られるようになった。

2 山林管理制度と日高の現況

・明治30年代の山林管理制度は、内務省に北海道局が置かれて、「北海道に関する政務は内務省の主管となったため」、森林事務も同省の直轄するところとなった。

3 森林開発と北海道国有未開地処分法

・日清戦争後の経済界躍進等によって、1897年(明治30年)に「北海道国有未開地処分法」が、資本家的な農場経営の発展に対し法的根拠を与えようとして制定され、土地の無償附与によって、一層積極的に大土地所有への途が開かれた。

・明治30年代末期は、「北海道材の一つのピークを形成するくらい」北海道の森林開発は急速に進んだ。

・「北海道材の真価は1907年(明治40年)前後になって広く認められ」、従来利用の途のなかった日高、天塩、北見などの未開地処分により売り払われた山林や、農場、農耕地の立木は、次第に伐採利用された。

・道内外の木材業者は競ってこの地に入り、積取船を廻航して、「沿岸で木材を積取り」、東名阪へ輸送するようになった。

・特に日高沿岸は長い海岸線と少雪から「有利に出荷することができた」。

・明治40年代の日高地方では、三井物産と王子製紙が毎年20万石の木材を「鵡川、沙流川流域から出材し」、沿岸で積採るか、鵡川から苫小牧まで馬車鉄道で輸送した。

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第五章(大正以後) 六 森林資源

1 木材の搬出と積取り

・1917年(大正6年)以後の「第一期拓殖計画の後半に入り」、事業内容の要点は森林境界の測定と造林におかれた。

・特に前者は、奥地開拓に伴い、「開拓の適地と林地の境界を画定する必要にせまられた」。

・「未開地と国有不要林の売払処分による森林収入が」、1910年(明治43年)からの第一期拓殖計画事業の主要な財源となった。

・従って、「大正時代は私有林野面積が著しく拡大し」、明治41年代から大正初めにかけての伐採量は急速に増加した。

・日高地方の輸送は、「鵡川・苫小牧間の馬鉄や、鵡川・沙流川の流送」によって沿岸で積取った。

2 面積と蓄積

・1967年(昭和42年)現在で、「日高の森林面積は全道の7.4%を占めており」、管内総面積の85.2%に当たる。

・「管内の森林の所有形態を見ると」、面積において58.4%が国有林、道有林は12.0%、町有林8.2%、会社有林3.9%、団体有林1.2%、個人有林16.3%となっている。

・「民有林の蓄積が13.8%と少ないのは」、過去の伐採跡地に成立した天然性幼合林と戦後植栽による若い人工林が多いためである。

3 造林事業

・近年、管内の造林事業は強力に推進され実績をあげているものの、「事業の奥地化・労働力不足・賃金高騰等」、拡大造林をとりまく諸条件はますます厳しさを増している。

4 木材需給

・日高管内の木材の需給は、年と共に増加傾向をたどり、「供給量との不均衡は拡大情勢にあり」、日高支庁においては木材の完全利用を強力に推進している。

・1971年度(昭和46年度)の「日高管内の一般製材生産は」、193,258立法メートル。

・「うち針葉樹生産材は53%で日高町が圧倒的に多く」、主として一般建築用材に供され札幌に移出されている。

・一方、「広葉樹生産材は47%で静内町・門別町・新冠町での生産が多く」、家具・枕木・土木建築用材として使用され、しかもその76%が道外移出(大半が東京都)、残りの24%が道内消費にあてられている。

【 ❻.商 工 業 】

第二章(明治以前) 七 交易のしくみ

・前松前藩政期は、「場所請負人の暴利で」、アイヌへの圧迫は一層募ったが、日高に苛酷な者はいなかった模様。

・前幕政期に入ると、「幕府役人が温情主義でアイヌに対処したが」、これは北辺防備上のアイヌ懐柔策と請負人の宿弊を一掃しようとしたもの。

・その後、幕府は経済政策上、やはり民業に委ねるのが得策として「各場所は請負制となる」。

・当時の日高に殆ど製造なるものはなかったが、「報文に次が誌される」。

  塩 1799年(寛政12年)様似場所で海水煮て塩試製し、その地シオガマと称す。

  酒 文化年間(1804年~)に様似会所に古き酒造蔵あるも発達せず。

・後松前藩政期は、「見るべき業績なく後退」。

・後幕政期に入り、商業施策よく、箱舘の昆布輸出は激増して「日高昆布の声価を高める」。

第三章(明治元年~18年) 八 商業の実相

・場所請負人は廃されたものの、生産物の販売、日用品の仕入等は大きく不便で、「しばらくは有力商人を漁場持ちとして」、従来通り場所の仕事を担当させた。

・明治維新まで商人と称する者はおらず、「開拓使に用達が置かれ」、商店に対しては日高の国に出店させ官民の便をはからせ、「次いで行商が来ると」、住民の中に商業を営むものもあり漸次発達した。

・しかし、各地とも住民少なく、運輸も不便で、高物価のため、「有力商家はなかった」。

・ただ、「幌泉は水産物が多く商業はやや早く進歩し」、後に各地移民が多くなるにつれ、有力商人が現れるようになった。

第四章(明治19年~45年) 七 三十年代の日高の商況

・日高は地理的な条件から大市場を設けられず、「各地域に小市場があるに過ぎなかった」。

・「その主なるものは浦河・幌泉」、次いで現静内、門別、様似、現三石など。

・その商業区域は管内にあっては、「その地域の近傍数里の範囲に止まり」、管外にあっては主に函館との取引であった。

・管内の商業は、「農民、漁民共に概ね仕込の法により」、つまり商人が味噌、器具、縄、薪等、彼等の需要品の殆どを売渡して、その代り農、漁の収穫物を引取っての勘定である。

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第五章(大正以後) 七 商工業振興の動き

・1970年(昭和45年)の「全道に対する日高管内の商業割合を見ると」、商店数は2.2%、従業員数は1.6%、商品販売額は1.0%となっている。

・「一商店当たりの人口は管内53人で」、全道53人と同じである。

・「日高の商業経営は概ね不健全と指摘され」、主因として消費人口の希薄、交通輸送施設の不備、これに伴う商品回転の鈍化、経費過重などが挙げられている。

・産業振興、企業誘致による人口増加を図ることは商業発展の重要課題に違いないが、よく現実を認識し、当面の問題としていかに消費者の支持を受け、「購買力流出を防止するかの努力が大切である」。

・1971年(昭和46年)の「全道に対する日高管内の工業の割合を見ると」、工場数2.2%、従業者1.7%、製造出荷額1.4%となっている。

同 章  一六 観光日高路

・「以下管内の観光の対象を列挙したが」、観光資源の保護開発を積極的に推進することが今後の課題であろう。

・日高支庁が言う「点から線の観光」を目標として管内を一本化した日高観光ルートの設定が望ましく、各町の観光対策がまちまちでは飛躍的進展はおぼつかないので、広域的な計画を打ち立てる方策を考える必要がある。

  日勝峠(沙流郡)、新冠発電所(新冠郡)、奥新冠のダム(新冠郡)、染退城跡(静内郡)、蓬莱山(三石郡)、日高種畜牧場(浦河郡)、親子岩又は夫婦岩(様似郡)、観音山(様似郡)、等澍院(様似郡)、幌満川仙境(様似郡)、日高耶馬溪(様似郡)、アポイヌプリ(様似郡)、エンルム岬(様似郡)、えりも道立公園(幌泉郡)、百人浜(幌泉郡)、黄金道路(幌泉郡)

・以上各郡の観光の代表的なものを述べたが、「更に観光の対象として推奨したいものを併記して置く」。

  日高国際スキー場、二風谷アイヌ文化資料館、沙流川沿岸、空飛ぶ円盤の聖地ハヨピラ、義経神社、トド岩、日高判官館青年の家、幌尻岳、新冠種畜牧場二十間道路の桜の並木、竜雲閣、双川の渓流、御殿山ケールン群、静内ダム、東洋一の軽種馬センター、ペテガリ山荘、春立海岸の潮干狩、円昌寺山門、日本中央競馬会日高育成牧場、浦河町森林公園、オロマップキャンプ場、浦河郷土博物館、平鵜の五葉松(自生北限地帯)、豊似湖、庶野の桜

【 ❼.鉱 業 】

第二章(明治以前) 八 地下資源

・「日高の地質について」植民状況報文に次のように誌される。

 「 当国地質は本道中最も整正で各種岩石順を追て配置。 即ち日高山脈は花崗岩で骨髄なし、古生層は花崗岩の周縁に、その両接に花崗岩作用により接合岩生ず。 中世層は古生層に次て処々に散在、第三紀層は古生層中世層に接し海岸に至り、第四紀層は各河川沿岸に生じ、而して西より浦河までは火山灰を以て被覆せられ、地味を瘠悪ならしめたる。」

・蝦夷地の鉱業は、江戸時代初期からの「砂金が最初だろうが」、1604年(慶長9年)に幕府は松前藩に金山管理を一任。

・しかし寛永年間(1623年~)をピークに「砂金源は乱採取で急速に枯渇」。

・日高も寛永年間に全盛を極めたが、1668年(寛文8年)のシャクシャインの乱で、和人(採金抗夫)が介在したため、「これを契機に坑夫が東蝦夷地に入ることを禁じ」、日高鉱場は急速に衰える。

第三章(明治元年~18年) 九 地下資源の開発

・開拓使の開拓政策では、農業と共に「地下資源の開発に特に重点が置かれた」。

・「米人地質学者のライマンが招かれ」、道内踏査の結果をまとめた。

・「そのうちの地質図はわが国最初のもので」、当時の技術から考えて相当精密なものであった。

・全く未知であった北海道の地質、鉱床の状態が明らかにされ、「以後の鉱山開発の有力な資料となって」、その功績は実に大きい。

第四章(明治19年~45年) 八 日高の鉱床

・北海道庁が設置されると、開拓使の政策を踏襲し、「大規模な地質、鉱山の調査をはじめ」、鉱床の開発に乗り出した。

・「この頃の日高の鉱床については」北海道鉱床調査報文で明らかにされているのでそれを摘録しておく。

  荷負炭層、タウシナイ炭層、ホルカハエ炭層、幕別炭層、慶能舞炭層、元神部炭層、新冠川炭層、ヲタツコブンベ炭層

  新冠川石油地、セップ沢石油地、ポロカキネシユマ石油地、ポロテシユケウシペ石油地、ヲプンカルンペ石油地

  幌別砂金地、元浦川砂金地、後鞆砂金、ウセナイ砂金

  元浦川灰石、三石灰石、幌別灰石

・補遺 (明治30年前後の「日高鉱業の現況状況報告文」に依る。)

  1891年(明治24年)以来、試掘若しくは採取を出願して許可を得たる鉱業は実に九十余筆の多きに達すと、「実際その業を営むもの稀なり」。  鉱物の種類は「石炭、砂金、石油を主とし」、石灰石は未だ出願者なし。

第五章(大正以後) 八 鉱床開発の促進

1 探鉱と採掘

・「様似郡に新富水銀鉱山があり」、1908年(明治41年)から経営に当たり、一時は活発な採鉱が行われたが、湧水が採掘を困難ならしめ、1955年(昭和30年)に閉鎖した。

・様似郡岡田村の石灰石はこれをコークスに作用させてカーバイトを「様似北海電気工業株式会社(東邦電化、現日本電工日高工場(株))」によって製造された。

・1959年(昭和34年)に「東邦オリビン日高工場は」、幌満近傍に無尽蔵に産出される純良なカンラン岩を原料として高級な鋳物砂の生産に着手し、各種鋳物に使用して優秀な性能を発揮している。

・「沙流郡ではクローム鉱山として有名な振内の日東鉱山があり」、1917年(大正6年)に試掘がはじまり、一時隆盛であったがその後有望鉱脈に恵まれず、1962年(昭和37年)に閉山している。

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2 上杵臼の石灰石

・浦河町幌別川上流域に石灰石が埋蔵されていることは古文献にも明らかにされていたが、1966年(昭和41年)に「浦河町は地元産業を加え会社を組織し」、1971年(昭和46年)に浦河石灰工業(株)の加工処理場が完成し操業に入った。

【 ❽.交通・通信 】

第二章(明治以前) 九 海沿い河沿いの道

・道路開削は1798年(寛政10年)にはじまり、ロシアの蝦夷地入り調査の為、幕吏大河内善兵衛政寿が東蝦夷地巡回の際、様似に足跡とどめ「様似山道開く」。

・この年に大河内に随行した近藤重蔵が国後、択捉を探検し江戸への帰途、アイヌを使役して様似に通ずる約三里の山道を「ピタタヌンケプより広尾に至る山道を開削」。

・これが「北海道最初の道路づくり」とされる。

同 章  一〇 海への関心

・前松前藩政時代の蝦夷地で「縄綴船という特有の船が用いられたが」、これは蝦夷地に良港が少なく、冬は船を陸揚げしなければならず、鉄釘も不自由であったため。

・ただし良港への航行は「普通の船(弁財船)を用いた」。

・「大和船の使用は」、明和(1763年~)・安永(1771年~)以降の蝦夷地の航運が開けてからである。

第三章(明治元年~18年) 一〇 交通路の改良

1 陸路と海路

・開拓使の時代に入ると、「江戸時代に各所に設けられた旅宿所(通行屋)は拡充され」、旅篭屋の経営するものも現れ、日高各地で開墾が活発になると、海岸線に沿って東西に走る国道から奥地に入る道路は開かれた。

・道路ができても架橋がなるまでは、「河川を渡るのに渡船にたよらねばならず」、昭和に入っても官設のものが三ヶ所、町村経営のものが四ヶ所を数えた。

・1869年(明治2年)に会所を本陣に、旅宿所を脇本陣と改め、1872年(明治5年)に旅篭屋と改称、「さらに駅逓所となって開拓使の所管に属し」、官馬をおいて、旅宿、通信の業務を行った。

・「当時日高の駅逓」は七ヶ所設けられた。

・1875年(明治8年)に「苫小牧・根室間の郵便線が開通し」、下ヶ方(現静内)・幌泉・浦河・三石(姨布)・様似・門別に「郵便取扱所を創設」。

・1884年(明治17年)に札幌から日高路を通過して根室にいたる「電信線が架設され」、浦河・幌泉に「電信取扱所を開設」。

2 海運

・開拓使の海運の方針は自ら船舶を常置するにあるとし、また、西洋型船の所有が許されると、「民間の造船は次第に隆盛を極めた」。

・1870年(明治3年)に、日高三石の小林重吉が「商人として始めて西洋型帆走船を所持」。

・また、優秀な船員養成の必要から1876年(明治9年)に「三石に我が国最初の海員学校を開いた」。

・1885年(明治18年)頃から「函館と幌泉間の海上交通もいよいよ繁くなった」。

第四章(明治19年~45年) 九 交通運輸の事業計画

1 日高路の面目

・「当時は徒歩か駄馬の背」によることが多かった。

・1897年(明治30年)に「駅逓馬車がはじまり」、駅逓は日高のような道路不便な未開地には大切な機関であり、昭和のはじめでもなお十カ所も存在していた。

・「馬車は一日で浦河から静内までが関の山」、翌日は富川までという具合で、いく日かの宿泊により苫小牧に至るという不便なものだった。

・1909年(明治42年)に「苫小牧軽便鉄道が佐瑠太へ開通し」、翌年、苫小牧~佐瑠太間の軽便鉄道が乗客、貨物の取扱いをはじめた。

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2 運航

・航路は、1890年(明治23年)頃になると、「函館の汽船三、四艘は常に日高各地の貨物の搭載に従事し」、日高にも風帆船を購入する者があり便利になった。

・1906年(明治39年)から北海道庁の補助をうけ、「逓信省命令航路の通航が開始し」、一か月四回の航行であった。

・「当時は定期航路として」、函館-浦河-様似-幌泉-広尾-釧路-函館と巡回する航路、函館-幌泉-様似-浦河-三石-静内-函館と日高沿岸だけに限られた航路、との二つであった。

第五章(大正以後) 九 日高路の変貌

1 交通運輸の推移

・1924年(大正13年)に「日高拓殖鉄道は佐瑠太より厚賀まで開通し」、1923年(大正12年)には乗合自動車がはじめて国道を通うようになると、これまでの馬車旅行は昔のこととなった。

・1926年(大正15年)に「鉄道は静内まで開通し、浦河~静内間は日高自動車合名会社経営のバス」によって往復した。

・1931年(昭和6年)には平取村岩知志~日高村右左府間の「沙流川右岸道路」が完成し、1934年(昭和9年)に「黄金道路」が完成している。

・1935年(昭和10年)に三石~浦河間、1937年(昭和12年)に浦河~様似間の鉄道が開通し「日高線が全通した」。

・1941年(昭和16年)には「浦河の定期船舶が廃止された」。

・1929年(昭和4年)に浦河港の竣工についで、1933年(昭和8年)に様似、1934年(昭和9年)に三石、1943年(昭和18年)に浜荻伏、1948年(昭和23年)に東栄等、「日高沿岸各町村の船入澗は次々と竣工を見」、それ以来拡張工事が計画されている。

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2 道路の現状と建設計画

・「日高と十勝を結ぶ産業開発道路は」、計画はすでに明治時代にさかのぼるが、1955年(昭和30年)に待望の大工事が始まり、ついに1965年(昭和40年)に完成した。

・道東と道央を最短距離で結ぶ内陸循環道路の中心路線として「経済交流も大いに促進されることになった」。

・「さらに浦河町と十勝の大樹町を結ぶ産業開発道路の開削」、静内・中札内間の産業道路の開削の促進に拍車をかけ、その実現を目指して期成会は活発な動きを見せている。

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同 章  一一 通信網

・昭和に入ると、通信事務が次第に輻輳して管内各町村に「次々と郵便局が設立されていった」。

・電信電話は、1912年(大正元年)に「門別町で市内電話が開通し」、1915年(大正4年)に浦河町に電話が設置された。

【 ❾.警 察 等 】

第三章(明治元年~18年) 一一 治安の維持

・開拓使創設以来、日高の警察制度は開拓使出張所の兼摂に委ねていたが、1872年(明治5年)に浦河支庁が置かれた際、「浦河に刑法局出張所を置き邏卒一名を派遣した」。

・1878年(明治11年)に開拓使は、治安に特に留意する必要があった幌泉に「札幌警察署幌泉分署を置き」、1879年(明治12年)に郡区町村編制によって三石以東四郡、十勝国七郡を管轄する浦河郡役所が設けられると、「警察事務は郡長が兼摂することとなった」。

・1882年(明治15年)に「浦河に治安裁判所と検事局が設置され」、1885年(明治18年)に幌泉村振興策として浦河治安裁判所を幌泉に移した際、はじめて「警部署長を幌泉警察署に配して」、これに行政、司法(裁判)を専属させた。

第四章(明治19年~45年) 一〇 警防と法務

・北海道庁が設置されると、「郡区長をして警察署長を兼ねさせ」、郡区行政事務と警察事務を兼摂させる制度となった。

・1887年(明治20年)に「浦河警察署が創設されると幌泉警察署は廃止となり」、幌泉分署として、静内、沙流、三石、様似分署と共に再出発した。

・1896年(明治29年)に郡長が廃され支庁長を置き、明治30年には浦河の郡役所を廃して浦河支庁が置かれると、「専任の警察署長、分署長が置かれるようになった」。

・1885年(明治18年)幌泉に移った治安裁判所(後の簡易裁判所)は、1897年(明治30年)に「再び浦河に復帰した」。

第五章(大正以後) 一二 警防と法務

・1913年(大正2年)に幌泉警察分署が廃止され、1923年(大正12年)に下々方警察分署は「静内警察署」と改称され、浦河警察署より独立した。

【 ❿.教 育 】

第三章(明治元年~18年) 一三 子女の教育

・1871年(明治4年)に熊本県から杵臼村に開拓農民が移住し、「寺子屋式教育が行われる」。

・同年、「稲田氏が東静内に私塾益習殿を開設し」、翌年、静内町大字目名に英学校を開設し、この私塾は学制発布により目名教育所と改めら、現在の高静小学校の前身となる。

・1872年(明治5年)に「我が国で学制が公布され」、全国児童の就学が日々増加した。

・「日高各郡の中心となる小学校は次のとおりだが」、概して士族団体の移住地の子女教育は漁民の移住地より遙かに早いようである。

  佐瑠太小学校(現富川小学校)、平取小学校(アイヌ学校)、門別小学校、日新小学校(現新冠小学校)、高静小学校、三石小学校、浦河小学校、私立赤心学校、様似小学校、幌泉小学校

第四章(明治19年~45年) 一二 育英

・1885年(明治18年)の金子大書記官の三県巡視復命書に、「本道の教育法は開拓者育成に遠く」官吏の養成所の感深く、植民地の実情に即していない点を指摘。

・1887年(明治20年)に小学校規則及び小学校簡易科教則などが公布され、「小学校教育を簡易にするとした」。

・簡易科制度は北海道が開拓途上にあるため、「開拓や産業の発展のためにある程度やむなし」とするものであった。

・従来小学校は初等、中等、高等を通じて八年制であったがこれを廃し、「全道を通じて高等、尋常併設校は三、尋常科は七、他はすべて簡易科とした」。

・1904年(明治37年)に「日高教育会が組織化されて」日高教育発展の使命を担った。

・「浦河に日高図書館を設けたのも」この年であったが、運営の貧しさから何時か失われてしまった。

第五章(大正以後) 一五 百年の大計

・「終戦後制定された地方自治法は」、国と地方公共団体との関係を確立し、各都道府県及び市町村は独立の自治体として認められるようになると、教育全般にわたる運営の任務と責任が生じた。

・1948年(昭和23年)の「教育委員会法」により道教育委員会の公選が行われ、日高支庁の教育関係事務一切は「道教委日高事務局」に移された。

・1956年(昭和31年)に新教育委員会法として「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定され、新教育委員会制度が全面的に発足するに至った。

・管内の小学校は、大正以後、昭和20年代にかけて僻地の開拓が進んだため、「それに伴い数多くの小学校の開設を見るようになった」。

【 ⑪.日高への提言 】

第五章 一八 日高への提言

・この時に当たり「戦後の見識豊かな歴代支庁長を迎えて率直な提言をきき、同時に地方自治に精魂を傾けている管内各町村長を招いて」進むべき日高将来への指針たらしむべく懇談会を催した。

  町村長の私的諮問の形で、例えば日高総合開発期成会の中に「日高の第二世紀を開発する委員会(仮称)」を設置してはどうか。

  馬に適する牧草は同時に牛にも適するがゆえに、肉牛、酪農を開発しその生産拡大を図ることが急務である。醸造用ブドウを栽培することも可能と思われる。

  馬のみに依存する畜産経営はややもすれば危険を伴うので、羊、牛、豚などを含めた総合的な飼養に転換するのが望ましいと思う。

  苫小牧東部の発展に伴い、それに対応する心構えが大切である。

  現在短大のないのは日高、根室、檜山支庁のみなので、大学誘致が望ましい。

  日高の人は花を好むのが特徴であるから花木類の栽培を目指したい。

  私は全日高青年開発会議を発足させたが、彼等の希望と夢が現実となるのを願っている。

  沙流川水域を苫小牧に吸収されるようになっては平取町の発展は著しく阻害される。

  何をするにも軽種馬にぶつかり、野菜・花木の栽培も馬にぶつかっている。

  アスパラガス缶詰の失敗など歴代支庁長の主唱していることが結実していないのが残念。

  工場の誘致を図ろうとしても、企業ベースにあった原料の供給が出来ないといったことや、通過型観光を如何にして滞在型観光に持ちこむといった事など、各町が競争するのではなく、一致協力して施策の具体化を図る必要がある。

  肉牛、野菜花木など新しい日高に適した農業として団地の形成を育てていかなければならない。 馬産地だけに将来競馬場を是非日高に誘致したいと思っている。

【 巻末 】 日高支庁百年記念誌 年 表

百年記念誌1 (JPG 25.5KB)

百年記念誌2 (JPG 26.3KB)

百年記念誌3 (JPG 31.8KB)

(参考1)「【概略版】日高の戦後史(75年間)・年表 × 2021年現在写真集!」

選抜 (JPG 44.9KB)

(参考2)【日高の歴史・文化】ポータルサイト!

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 『日高の【歴史的文化】活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)』
  2. 『北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧!』
  3. 『北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!』
  4. 『北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!』
  5. 『日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!』
  6. 『北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!』
  7. 『【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!』
  8. 『【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~』
  9. 『【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~』
  10. 『【概略版】日高の戦後史(75年間)・年表 × 2021年現在写真集!』
  11. 『北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】× 2021年秋現在【写真集】!』
  12. 『文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集』

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