【超三倍速】で日高の歴史(概要)が理解できる!「【概略版】日高開発史~日高支庁八十年記念誌~」(2021年3月)

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■ 「日高開発史」は、日高支庁(現日高振興局)の前身の浦河支庁が開設され、八十年を迎えるにあたり、当時の日高には、まだその歴史をまとめたものがなかったので、「日高のうつりかわりを解明」するため、昭和29年(1954年)2月に発刊されたものです。

■ それから約70年近くの時が過ぎ、令和の時代になっても、それ以前の過去の歴史から学ぶべき点が多いと思われますが、約290ページの書なので、このたび、下記のとおり、「要点のみを箇条書き」にしてまとめたので、掲載いたします!

■ なお、下記をクリックしていただくと、「同誌の全文を掲載したページ」にリンクしますので、申し添えます。

「第一編 開発前史 (明治(1868年)以前)」

一 概説 (明治以前)

・表日本の特色として、晴れの日多く、「気候温和で特に少雪」、日高の国名にふさわしい。

・「アイヌの生活舞台として」、少雪温和、山間渓流地快適、雪避ける鹿の越冬地など好条件。

・従って日高は、「アイヌの古都」といわれ、アイヌ文化が最も円熟した地域。

・「一部落は百戸以下」で、国家的組織を持たないが、他部族と団結して争闘した例あり。

二 遺物と口碑 (明治以前)

・沙流川下流、三石、襟裳岬地方の「遺跡」。

・津波と共に古アイヌの脳裏に残ったのは、「民族間闘争」で、十勝勢来襲のものが多く、十勝側にも日高の侵入のもの少なくないが、胆振方面とは古来友好的であった模様。

・「日高のアイヌ系統」は、染退川を一線として、その東方をメナシクル、西方をサルンクルとする別系統であり、そのため寛文事変も生じる。

三 アイヌの自然と生活 (明治以前)

・アイヌの「動植物の利用」(熊、鹿、鮭、鯨、アツシ、かんじき、丸木舟、ウバユリ、農業、家屋)。

・後世、和人の場所設定にあたり、コタン形勢等から「七場所を決定」し、中心的コタンを場所名とし、漢字を当てる。

・明治二(1869)年に松浦武四郎の案で、「場所名は郡名」とされ、七郡を合して日高国と命名。

・「七郡の原名、意味は概ね次の通り」。

 沙流 サロペツ  かや多き川

 新冠  ニカプ 楡の皮 もとピポク

 静内  シフッチナイ 大祖母 もとシベチャリ

 三石  エマニツウシ 魚焼ぐし

 浦河  ウララペツ 霧の川 もとムコチ

 様似  エサマニ かわうそ もとエンルム

 幌泉  ポロエンルム 大岬

・なお、「平取」はピラウトリで断崖の間の意、「日高村」はもと右左府(ウシャップ)村(両方に出入口のある意)と称し、「門別村」はモペツ即ち遅流の川の意。

四 和人の来住 (明治以前)

・寛永十(1633)年にケノマイ(門別村清畠)シブチャリ(静内町)に豊富な砂金床が発見され、寛永十二(1635)年には運別(様似村)でも採金開始なるも、寛文事変(1669)で「採金入稼は一旦禁止」となる。

・寛文事変(シャクシャインの乱)後は、アイヌは自由自然の民族でなくなり、「松前藩の封建制下の下層階級」として、松前資本家の産業労働者に過ぎなくなる。

五 場所の発達 (明治以前)

・最初知行主は、オムシャなる儀礼を以てアイヌと物々交換を行うも、「後には商人に請負わせて」運上金を領収。

・露使ラツクスマン根室来訪により、北辺緊迫し、幕府は寛政十一(1799)年に東蝦夷地中、「浦河以東を直轄地」とし、幕吏が各場所を経営。

・蝦夷地に「駄馬」が入ったのは、おそらく寛政元(1789)年の国後アイヌ争乱で、馬十九頭を伴い絵柄(室蘭)から幌泉に進軍のとき。

・襟裳半島付近の難所は、辺土防衛上、馬足を通す必要があり、蝦夷地三大難所の随一の日高の嶮道は、寛政十(1798)年に「幕府勘定近藤重蔵」により着手。

・昆布は松前産が本州に移出されるも、産出減少のため「三石昆布」に代え、本道優秀銘柄の一つとなる。

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・寛政十二(1800)年に多数の馬を東蝦夷地場所に補給、海上船と共に「陸上は駄馬交通の時代」となる。

・各場所の備馬は漸次自然養殖するも、手入れ行届かず、安政五(1858)年に幕府は、「元浦川東岸に牧場」開く。

・寛政十二(1800)年に伊能忠敬は、海岸沿いに「東蝦夷地の測定開始」、後年、間宮林蔵により補測され、蝦夷の真形が得られる。

・安政二(1855)年より松浦武四郎は、従来不明の「蝦夷地の山川を調査」し、従来の蝦夷地図は飛躍的に進歩。

・宗教に関し、アイヌは多神教だが、伝承上の神としてオキクルミを崇敬し、「平取はその神の万物創成の聖地」としたため、沙流人は他地方より尊敬される。

・享和二(1803)年に箱舘奉行は、邪宗門(ロシア人布教)の取締りを兼ね、仏教弘布の必要を認め、「東蝦夷地に三官寺」を設け、様似に等澍院建立。

・各神社中、「明治以前に創立されたもの」は次のとおり。

 平取  義経神社 九郎叛官義経 寛政十一(1799)年

 門別  稲荷神社 興受姫神 明治九(1876)年に創立なるも以前よりあり

 新冠  氷川神社 素盞鳴尊 文久元(1861)年

 三石  稲荷神社 保食神 文化三(1806)年、天保七(1836)年

 浦河  稲荷神社 保食神 享和元(1801)年

 様似  住吉神社 底筒男命外 寛永年間(1623~)よりあり

 幌泉  住吉神社 底筒男命外 文化十一(1814)年 外に幌泉村内に各社がある。

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「第二編 開拓創業 (明治元(1868)年~明治18(1885)年)」

一 概説 (明治元年~明治18年)

・明治元(1868)年に「箱舘裁判所」がおかれ、翌二(1869)年に「開拓使」設置、明治十五(1882)年に開拓使廃し「函館、札幌、根室の三県」を置き、明治十九(1886)年に「北海道庁」設置に至る。

・明治六(1873)年、後の北海道庁長官の「北垣国道」が一理事官として浦河に赴任、浦河築港を当局に迫るほか、新冠に牧場を開くに至るのも彼の卓見によるもの。

・陸続きの離島ごとき半島部開発には、安全な錨地が不可欠なるも、民力弱小等で、「浦河築港」はその半世紀後ようやく実現。

・陸道は、幕領時代から「東部根室への通路」とし、全道に先がけ開さくなるも、駅逓整備のほかは、道路工事のみるべきものなし。

・この頃、石狩川流域の開発が道治根幹となり、「沿岸時代は去り」内陸時代を迎え、土地開発を促進する交通線変化は、日高開発に至大の影響をもたらす。

二 先駆移民の開村 (明治元年~明治18年)

・開拓使は、税制整わざるをして、広大な北海道開発は困難と考え、多くの反対論を一蹴し、明治二(1869)年に枢要地直轄する他は、「旧藩士族寺院に分治」させる方策を採る。

・三石・幌泉両郡は「開拓使」に属しめ、沙流西半郡を「仙台藩」、東半郡を「彦根藩」、新冠を「徳島藩」、静内を「増上寺」、浦河様似両郡を「鹿児島藩」に委任するも、増上寺はのちに稲田邦植にかわり新冠郡もあわせ、鹿児島藩は受諾せず返上したので、直轄地とする。

・この「分治」は概ね不評であり、開拓使の実力備わると共に、明治四(1871)年の廃藩置県を機に全廃。 移民に三年に限り「扶持米」を給して離散防止につとめる。

・仙台藩富川に入る、彦根藩の計画、稲田氏主従の移住、九州からの移民、赤心社の開拓、ルベシベ(豊畑)の団体移住、東北漁民の着業。

三 産業その緒に就く (明治元年~明治18年)

・明治二(1869)年の「請負制度廃止」は、日高産業史上画期的出来事で、請負人の収奪から漁場が解放され、アイヌ、自分稼ぎ、永住人等は自由な活動が許される。

・日高の農村開拓は、各移民等により軌道に乗るも、本格的開拓技術無し、北地生活経験乏しい、適作物発見導入無し、生産物販売が交通難で梗塞、新墾農具及び役馬役牛の欠如等、その他自然脅威により「多数離脱者」を出し、開畑面積も微々たるに止まる。

・十勝開拓に燃え静内開墾地を検分した依田勉三も、「日高国一帯の開拓精神欠如」を述べ、この地方の民風一端とする。

・北海道開拓は、黒田清隆が海外の長所採り入れに重点をおき、外人招き、家畜種子農具等輸入するも、「実際は内地延長主義」で、麻、藍の栽培加工、養蚕、莨、漆樹のごときを重視し、現在よりはるかに内地模倣の度合い強し。

・明治元(1868)年に開拓使は浦河牧場を廃し、馬五百余頭を様似、浦河、三石の住民に委託するも、馬が野生化し耕地を荒らすので、「新冠に馬千七百頭を収容」し、新冠牧場を視察したケプロンは前代未聞の好条件と喜び、エドウイン・ダンは新冠牧場の改善につとめた。

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四 文化の漸進 (明治元年~明治18年)

・行政は、明治五(1872)年に「浦河支庁」を設置し、広尾、幌泉、静内、門別に出張所置くも、明治七(1874)年に支庁廃し、「本庁直轄行政」に復す。

・明治十二(1879)年に郡区編成法により、「日高は東西に分治」され、「浦河外十郡役所」を浦河におき、三石以東四郡及び猟師のみの十勝国を包括する一方、西部は苫小牧に「勇払五郡役所」を設け、静内新冠沙流三郡及び勇払千歳白老の三郡を管掌。

・その後、明治二十(1887)年に日高国一円を以て「浦河外六郡役所」となり、明治三十(1897)年に支庁復活。

・交通は、日高沿岸に駅逓備わり、駅馬渡船の便あって、郵便線と電信線が走り、国道三等として、「東部要地の根室と本庁をつなぐ動脈形成」するも、至って原始的な設営にすぎず。

・これより先、石狩平野に幌内鉄道が開通し、石狩川水域の開拓前線は内陸に進み、生産額人口数たちまち日高根室ごとき先進地を圧倒、「日高沿岸通いは枝葉」となった観ある。

・日高は函館商人の勢力下で、「日高の玄関は海港」であり、日高東部の浦河幌泉は多少の湾形をなし、船舶来航多少あるも、西部は泊地に乏しい。

・「浦河港」は室蘭厚岸間で唯一の錨地で、築港必要が唱導されるも、完成は半世紀後の昭和五(1930)年となる。

・「学校」は、稲田氏の私塾益習館、富川移民団の沙流太教育所、小林重吉の三石の海員学校、赤心社の赤心学校、このほか特志家により私学がおこるも、生徒数は微々たるもの。

「第三編 拓殖進展 (明治19(1886)年~明治45(1912)年)」

一 概説 (明治19年~明治45年)

・明治二十(1887)年以降、石狩空知上川より十勝北見の沃野に、有力農村が鉄道開通と共に出現すると、日高は農村弱小で「主要交通から外れ」、昔日の面影を失った感あり。

・漁業は沿岸漁業から沖合漁業へ進出し、日高には「その基地の漁港がない」ため、本州より出漁し函館室蘭に根拠地をおく発動機船群に圧倒される。

・明治三十四(1901)年に西支庁長を迎えるまで、「日高開発の行政長は任期短く」、開発業績振るわず、時勢の急速変化に即応して郷土開発すべき明治二十年代(1887~)、日高は惜しくも開発好機を逸する。

・「馬産」も、御料牧場、競走馬、軍馬生産等の花形的なものにすぎず、全住民を潤す生産額には達せず。

・「交通難と漁港漁業の改善」は共通課題となり、日高の天然資源である森林資源と鉱産資源はいまだ効果的に利用されず、工業もほとんど見通し無し。

二 行政の展望 (明治19年~明治45年)

・明治三十四(1901)年に「西支庁長が着任」すると、日高実業協会を興し住民の自主的活動を促し、国有種馬牧場の設置を実現し、造林をすすめ、牧畜、水産、商工を振興し、九年にわたり日高発展につくす。

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三 開拓地の拡大 (明治19年~明治45年)

・明治二十(1887)年以降は、「本道の開拓盛期」で、日高も同様、移民は河川入口に早く入地し、次に奥地に付き、第三次は一層不便な山間に定着する等、ほぼ一定順序がみられる。

・明治末期(~1912)に至るまで、「開拓線」は急速に沿岸近くの肥沃地覆い、日高山脈峡谷部に達し、一応好適地は開墾つくされるが、肥料分を掠奪する「荒削りな開拓」といえる。

四 産業の発達 (明治19年~明治45年)

・明治二十四(1891)年にはプラウ耕が普及して耕馬も大型化、流通も開けたので、大小豆を主たる販売作物とする「北海道的な経営」となる。

・明治四十三(1910)年に「王子製紙苫小牧工場」が操業開始し、原木運搬のため苫小牧沙流太間に「軽便鉄道」が敷かれ、また、幌満や冬島に「製材所」が開かれる。

・明治二十一(1888)年に「日高馬市会社」が静内に開かれて、牧場出願が漸増し、明治二十七(1894)年の戦役により軍馬徴発が行われ、馬種改良と共に価格も増す。

・浦河では「昆布改良組合」が組織され、明治二十九(1896)年に漁業組合となり、三十六(1903)年に浦河水産組合に生長。

五 交通と文化 (明治19年~明治45年)

・「国道」は、明治二十六(1893)年に苫小牧沙流太間、二十八(1895)年に沙流太高江間、三十二(1899)年に静内まで、三十三(1900)年には三石通過し浦河まで全通し、行人はすべて駄馬にまたがる。

・先に明治十八(1885)年、金子堅太郎大書記官の三県巡視復命書で、根室方面発展には、沿岸道より、「上川から十勝に出る内陸通路開削が力説」され、三十一(1898)年に鉄道は上川に到り、三十三(1900)年には右左府村を勢力圏とする金山駅が開通。

・よって日高民が久しく懸案とした「交通難の打開問題」は、全道的大問題でなくなる。

・「日高の鉄道誘致」は、本道各支庁中最も遅れたが、之は住民の並々ならぬ運動が含まれる。

・各村生産物、日用品等の輸送及び一般人民商人等の旅行はみな、函館を基点とし「沿岸各地に至る船舶」に依存し、これが日高陸道の開発遅れの一因となる。

・「学校」は、明治十九(1886)年に13校、二十四(1891)年に24校に増加、概ね東部の開拓古い農漁村にあったが、明治三十(1897)年に29校、明治三十五(1902)年には43校となり、農村開拓が進む西部に多く設けられた。

・また、アイヌ問題の世論高まり、明治三十二(1899)年に「旧土人保護法」が成立。

「第四編 新時代への歩み (大正元(1912)年~昭和28(1953)年)」

一 概説 (大正元年~昭和28年)

・昭和十二(1937)年に「日高線が全通」し、物資は沖がかりで荷役する不便を免れ、昭和九(1934)年には「黄金道路」が開通して十勝と結ばれる。

・一方、海上交通は、「鉄道と自動車の発達」により第二義的なものとなる。

・「漁業」は、昭和期に入り道庁の機船補助により、沖合漁業はようやく盛況に向かう。

・先人が熱望した「浦河港」は昭和四(1929)年に竣工し、小漁港は現在十四港を数え、他管内と遜色なくなる。

・「農業」は、第一次大戦後の恐慌、昭和初期の冷害等の苦難にあい、産業組合運動が農村に浸透。

・「馬」は競馬の流行で名声をはせ、自然条件と生産技術の優秀さで、日高の名は日本競走馬界に重きをなす。

・「工業」の発達は、交通条件不利により遅々たるもので、僅かに合板工業が若干興るにすぎず、豊富な水力や鉱物も眠りまま。

・日高開発をはばむ諸条件は年々取り除かれ、他支庁に比して「甚だしく後進的だが、日に日に向上」し、各人の不断の努力が推進力となる。

二 行政上の諸問題 (大正元年~昭和28年)

・歴代の支庁長、町村行政の変遷、第二期拓殖計画、新冠御料地の開放運動、門別演習場の問題、道議会及び国会議員の選挙、戦時下の日高。

三 人口の増加 (大正元年~昭和28年)

・大正元(1912)年の日高の総人口は三万九千人が、昭和十八(1943)年には約二倍の七万八千人に達し、これは「北海道の人口増加のあゆみと相似」する。

四 新しい農業 (大正元年~昭和28年)

・日高の耕地は「大正十(1921)年に極点」に達し、その後は略奪耕作の地力低下、景気変動、凶作頻発等により、耕地面積はむしろ低下。

・しかし、戦後には「開拓民」を受け入れ、今後の耕地面積は急増と推察。

・戦後の農地解放後、「自作化」が進むが、全道的にみれば自作率は低く、これは漁村部の零細兼業農家のため。

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五 森林資源の開発 (大正元年~昭和28年)

・明治中期以降、貿易進展と共に「造林業」が起り、木炭製造も大正期に盛んになり、沙流川沿岸の針葉樹はパルプ原料として明治末年より伐採搬出。

・昭和(1926年~)に入り、奥地からの搬出が困難となり、ようやく「森林保全(植林)」を考慮する時代となる。

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六 畜産業の変遷 (大正元年~昭和28年)

・日高の産馬は道路が完備しない当時、駄馬の供給地として発足し、時勢の推移に伴い「軍馬及び競走馬」の飼育に重点が置かれる。

・当初牛を開墾に使用するも、馬体改良で速度ある「馬耕が普及」して役牛は無くなり、酪農は、地的条件良好なるも、馬産熱に圧倒され、他支庁と比較し低調。

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七 漁業の発達 (大正元年~昭和28年)

・水産高は、大正三(1914)年には農業高の半分に及ばなかったが、昭和三(1928)年に逆転し、その後一進一退し昭和八(1933)年から「水産は圧倒的に優勢」になり、昭和二十五(1950)年でも水産十五億円、農産十億円と依然として水産優位。

・沖合漁業の進歩と共に「漁港築設」が要望され、昭和六(1931)年に幌泉、七年に東静内、様似、八年に三石、襟裳、九年に庶野が着工し、続いて荻伏、古島、厚賀、節婦、春立、鳧舞、東栄(荻伏)等の十四港が竣工または工事中に属する。

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八 クローム鉱業の躍進 (大正元年~昭和28年)

・「砂金」は古来技法を出ず、「銀鉱」は幕政時代の試掘にとどまり、「炭鉱や油田」もことこどく失敗。

・「石灰岩」は、昭和十六(1941)年に様似に北海電気(株)日高工場が操業して採掘される。

・ニセウ付近の「クローム鉱業」は目下稼行中。

九 工業の漸進 (大正元年~昭和28年)

・日高の工業は豊富な森林資源に依存し「木材工業」が発達。

・昭和十六(1941)年より様似に北海電気興業が「珪素鉄製造事業」を開始。

十 自然の災害 (大正元年~昭和28年)

・大正二(1913)年の「凶作」、昭和六(1931)年の「凶作」、昭和七(1932)年の「水害凶作」、昭和八(1933)年の「三陸津波」、昭和二十七(1952)年の「十勝沖地震」。

十一 交通の整備 (大正元年~昭和28年)

・十年の歳月と本道無比の費用を要し昭和九(1934)年に「黄金道路」が開通。

・昭和六(1931)年に「沙流川右岸道路」が完成し、別天地右左府(現日高町(日高地区))の開発に一時期を画す。

・「日高拓殖鉄道」が大正十三(1924)年に厚別、大正十五(1926)年に静内まで延長、その後「国鉄」となり、昭和八(1933)年に三石、昭和十(1935)年に浦河、昭和十二(1937)年に様似まで開通し、日高の動脈として活動。

・自動車交通は、大正九(1920)年に「日高自動車(株)」が設立され、沙流太浦河間に定期自動車を運転するに至り、定期馬車は廃業。

・昭和三(1928)年に「日進自動車会社」が平取荷負間で運行し、右岸道路の開通とともに昭和七(1932)年に日高村に延長。

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一二 進む文化の波 (大正元年~昭和28年)

・明治四一(1908)年より義務教育年限が延長され六年となり、さらに二年の高等科が設けられ、「役場所在地の各校」は、普通高等科の併置早く、所謂中心学校とよばれる。

・日高に「町立浦河実科女学校」が設けられたのは昭和十一(1936)年で、男子は昭和十六(1941)年に「庁立静内農学校」が開校したが、日高は終戦まで中等教育に最も恵まれない地域。

・その後、終戦により、従来の教育方針が是正され、教科書の戦時色は削除され、昭和二十二(1947)年には、「教育基本法、学校教育法」が発布され、所謂六三の新教育が開始。

・「日高の生活文化」は、交通機関(鉄道、自動車)通信機関(郵便局、電信電話、ラジオ)学校、医師、電燈、寺社その他劇場、水道、燃料等各方面より考察出来るが、全道的にみればやや後進性をもち普及して今日に至る。

・「日高の観光」は、襟裳道立自然公園、シベチャリチャシ、アポイ岳高山植物群落、幌満五葉松自生地、その他名勝として、右左府峡、判官館、双川の渓流、蓬莱山、義経神社、新冠種畜牧場、西舎種馬牧場あり。

一三 総合開発への希望 (大正元年~昭和28年)

・昭和二十七(1952)年に「日高総合開発期成会」は、日高の開発に対する問題を次のように決定。

 日高線のスピードアップ、日勝鉄道の敷設、日高中央幹線道路の開さく、日高十勝連絡道路の開さく、開拓の促進、奥地林の開発、治水事業の実施、浦河港の拡充、各港湾の整備、地下資源の開発、電源開発、河川総合開発事業、水産孵化場日高支場の設置、水産指導所の設置

・昭和二十八(1953)年十月、北海道総合開発委員会は中間発表として、今後必要な施設を推進する資料として、科学的な分析を行い、「日高の特殊性」は、この報告により明らかとなる。

一.日高の農業の問題点

 豆類連作の危機、牛の導入、二三男の問題、水利と水田の問題、商品の割高と農産物の割安

二.林業の問題点

 奥地林の開発、造林の強化、治山施設、林業が住民の生活にプラスされるものであること

三.水産業の問題点

 資源の保護、沖合への進出と機船の整備、幌泉方面の商品流通面の打開、漁村と畜牛

四.工業の問題点

 発展の低さ、原料費の割高、電力不足

六.交通の問題点

 道路網の不備・道路の延長及質の劣っていること、鉄道も右と同様である、鉄道と道路の連絡の弱体、海上輸送系統に対する検討の必要

七.河川に関する問題点

洪水が多い、砂防工事、貯水池の必要、灌漑用水としてもっと利用していくこと

「巻末 日高開発史 年表(詳細)」

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(参考1)【超三倍速】で日高の歴史が理解できる!「【概略版】日高のあゆみ~日高支庁百年記念誌~」

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(参考2)「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 × 2021年現在写真集!」

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(参考3)【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!

【当該サイトの主な掲載内容】

  1. 「日高の歴史的文化活用事業(日高の歴史的文化活用資源【リスト】)」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 × 2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】× 2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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