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最終更新日:2006年2月18日(土)


馬文化ひだか:馬を知る:馬の日高史:日高における馬産の確立


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日高における馬産の確立
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日高地方は戦前から馬産地としての指定を受け、サラブレッドが飼養されていた。しかしながら、戦前のサラブレッド生産では下総御料牧場(千葉)と小岩井農場(岩手)が「横綱的存在」であり、日高地方では長い間、馬産そのものが農業の主流をなすことはなかった。当時の日高農業の中心は、大豆・小豆・あわ・そば・馬鈴薯などに大麻・藍・漆などの工芸農産物を加えたものであった。そして戦後もしばらくは戦前の農業形態であったし、軽種馬を飼養する農家も序々に増えたが、多くは少頭数飼養の副業的経営であった。

三冠馬シンザン写真
史上初の五冠馬シンザン (内藤律子氏提供)
戦後、競馬は復興した。昭和29年(1954年)には中央競馬会が設立され、次いで日本軽種馬協会が発足し、軽種馬生産の土壌があった日高は一気に競走馬生産のウエイトを高めていく。1960年代には競馬ブ-ムが起こり、競馬産業は未曾有の拡大を遂げた。この時期の競馬ブ-ムこそ、日高地方の農業構造を激変させ、日高が「サラブレッドのふるさと」として全国に名を轟かせるようになった要因である。日高支庁管内での農業粗生産額における軽種馬の割合は、1965年には約20%だったのが70年には一挙に60%となり、軽種馬が主役に躍り出た。伝統的な農産物の将来性に陰りが見えはじめ、70年代に米の生産調整(減反)が始まったこともこれに輪をかけた。さらに、繁殖牝馬の「仔分け制度」や種牡馬の「シンジケート」という特殊な生産関係も一因である。これらの制度により、個人で牝馬や種馬に大金を支払うというリスク無しに軽種馬生産に携わることが可能となり、一攫千金の夢を追う風潮が醸成された。その結果、日高地方の水田の多くが牧草地や馬のパドックに代わったのである。

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