スマートデバイス表示はこちら

ホーム > 地域創生部 > 地域政策課 >  2.観光資源調査(歴史・文化)


最終更新日:2016年9月21日(水)


2.観光資源調査(歴史・文化)


日高の「歴史・文化」

日高の自然景観日高の牧場・農場風景日高の観光施設日高の沿道景観日高の産業風景日高の特産品・食日高の歴史・文化
平取町の歴史・文化門別・日高(日高町)の歴史・文化新冠町の歴史・文化静内・三石(新ひだか町)の歴史・文化浦河町の歴史・文化様似町の歴史・文化えりも町の歴史・文化

平取町(ページの先頭に戻る↑)
オプシヌプリ(穴あき山) ハヨピラ公園のオキクルミカムイ像 義経神社
オプシヌプリ(穴あき山):沙流川右岸(国道237号線対岸)の稜線にある幅約14メートルの穴あき山は、その昔アイヌ民族に生活文化を伝承したオキノクルミという神が、イチイの木の弓にヨモギの矢をつがえて射抜いたという伝説がある。明治31年までは上がつながり本当の穴だったといわれている。夏至の前後10日間だけ太陽が穴の開いた岩場に収まり幻想的な風景がみられる。
(撮影地点:平取町二風谷・秋)
オキクルミカムイ像:アイヌの最高神といわれているオキクルミの像。ハヨピラ公園内(通称:UFO基地)に建てられているが、平成18年1月現在は、自然災害のために公園内への立ち入りが禁止されているので注意。
(撮影地点:平取町本町・秋)
義経神社(ヨシツネジンジャ):祭神は源義経。寛政3年(1791)に、沙流場所請負人山田文右衛門が建立したというものと、寛政11年(1799)あるいは享和2年(1802)に幕吏近藤重蔵が、アイヌに義経信仰があることを知ってハヨピラに一廟を建てさせたものが始まりともいわれる。明治34年(1901)の大水害により、ハヨピラに建立したものを、現在の高台「ホウスマウンナ」に社殿を増築して遷座し、現在の社殿は大正8年(1919)に造営したものである。
(撮影地点:平取町本町・秋)
沙流川アート館    
沙流川(サルガワ)アート館:廃校(川向中学校)を利用した風情漂うアートギャラリー兼アトリエ。クロッキー会や個展を定期的に開催している。
(撮影地点:平取町川向・秋)
門別・日高(日高町)(ページの先頭に戻る↑)
千栄神社 浄教寺 日高神社
千栄神社(チサカジンジャ):日高町発祥の地「千栄(ちさか)」の守り神。毎年9月下旬から10月中旬に地区住民が集い祭りを開催している。日高町の発祥地である千栄部落の守り神で、町有放牧地内に小社宇と地鎮社を祀ったのが始まり。 大正10年(1921)、現在地近くに千呂露神社の名称で、新築移転した。昭和18年(1943)、現在名に改称したが、昭和35年(1960)、日勝道路建設予定地コ-スに触れたため、約20m離れた現在地に移動した。
(撮影地点:日高町千栄・秋)
浄教寺(ジョウキョウジ):大谷派の僧侶高渕義が住本堂兼庫裏を建立し、真宗大谷派説教所として布教を始める。大正15年(1926)に火災で焼失し、昭和2年(1927)に本堂庫裏を建築して再起したが、昭和9年(1934)、再び火災で焼失する。 昭和21年(1946)、現在地に本堂・庫裏などを建立し、現在名に改称。昭和45年(1970)に本堂、昭和47(1972)に庫裏納骨堂を改築した。
(撮影地点:日高町松風町・秋)
日高神社(ヒダカジンジャ):明治天皇・天照皇大神・大物魂大神・大国魂大神・大己貫大神・少彦名大神が祭られている。、平成4年9月吉日に本殿幣殿拝殿を大改築。平成13年9月大鳥居の面目を一新し現在に至る。
(撮影地点:日高町宮下町・秋)
五社大神 日高寺 日高寺八十八箇所霊場
五社大神(ゴシャダイジン):昭和45年ごろ、地域で集落ごとに祭っていた神様だが管理が難しくなったため、五角柱のそれぞれの面に神様の名前を入れ各集落のものをあわせて五社大神とした。
(撮影地点:日高町宮下町・秋)
日高寺(ニッコウジ):弘法大師と縁が深い寺。境内付近に新四国八十八箇所霊場がある。真言宗、琢磨宥文が開基した佐留太説教所が始まりで、大正9年(1920)に公称が認可される。
(撮影地点:門別町富川東・秋)
日高寺八十八箇所霊場(ニッコウジハチジュウハッカショレイジョウ):94体の仏像を巡る八十八箇所。日高寺から墓地を挟んで沙流川方向へ並んでいる。檀家等が冥加金を集めて、94体の仏像を安置したもの。
(撮影地点:門別町富川東・秋)
富川神社の御神木 門別稲荷神社 大成丸慰霊之碑
富川神社の御神木(トミカワジンジャノゴシンボク):富川神社境内にある御神木。
(撮影地点:門別町富川東・秋)
門別稲荷神社(モンベツイナリジンジャ):安政4年(1857)、長岡藩士が沙流会所を訪れた記録に記載され、享和3年(1803)にシノダイにあった義経祠を移したともいわれるが創建の年代は不明で、寛政初期ではないかとも言われている。残されている扁額「稲荷神社」が文久4年(1863)に奉納されている。慶応4年(1867)、沙流場所請負人山田文衛門が社殿を改築。
(撮影地点:門別町本町・秋)
大成丸慰霊之碑(タイセイマルイレイノヒ):大成丸(1948トン)は千島列島最北端占守島で北辺の警備に当っていた。昭和20年4月19日午前0時15分頃、北千島のパラムシル島から沖縄に転戦する旧陸軍の海上機動隊第三旅団の工兵、戦車隊など約1500人を乗せて航行中、厚賀沖約8キロの海上で米潜水艦の魚雷2発を受けて、約4時間後に母国を目前にしながら、沈没した。その後、救助に当った人やけが人を看護した人たちの意志で、厚賀一致会が中心となり慰霊祭をおこなった。
(撮影地点:門別町厚賀・秋)
新冠町(ページの先頭に戻る↑)
旧節婦小学校跡 会所跡の墓標 新冠町100年記念塔
旧節婦小学校(キュウセップショウガッコウ)跡:当時の児童は本町にある日新小学校に通っていたが、大正期になると節婦の人口は増え、大正15年10月2日に日新小学校附属節婦特別教授場が海岸付近に設置された。これが節婦小学校の創立となり、昭和13年に現在地に移転するまで、所在していた。その校舎のあったところは、海岸侵食によって今はもう見ることができない。
(撮影地点:新冠町節婦町・秋)
会所跡(カイショアト)の墓標:新冠町発祥の地と呼ばれている判官館の前浜にある3基の墓標。等院の過去帳で、江戸時代に新冠会所で勤務していた武士であることが判明している。安政5年(1858)のものは石坂与十郎の墓。天保12年(1841)のものは大崎千蔵の墓。他の1基については無名。
(撮影地点:新冠町高江・秋)
新冠町100年記念塔:新冠町の100周年を記念して、高江の判官館森林公園内に建てられた塔。バンガローなどのキャンプサイトに横に建立されている。
(撮影地点:新冠町高江・秋)
新冠泥火山 新冠牧馬場跡 木の皮学校保存室
新冠泥火山(ニイカップデイカザン):地層の軟弱点から、地下の泥土や地下水・ガスが噴出し、それが長い年月をかけ、山のように堆積してできあがったもの。その数は大小あわせて八つあり、特に第七・八丘は大型で、これだけ大きいものは珍しいとのことから、北海道の特別天然記念物に指定されている。現在は牧場の放牧地として活用されている。
(撮影地点:新冠町高江・秋)
新冠牧場(ニイカップボクジョウ)跡:明治5年に開設し、明治21年からは新冠御料牧場に名称が変わった。サラブレッド銀座通り沿いの、小泉牧場入り口横に石碑が建っている。
(撮影地点:新冠町高江・秋)
木の皮学校保存室(キノカワガッコウホゾンシツ)①:太陽小学校近くにある。保存室内には「木の皮学校」と、当時の住居「拝み小屋」が復元され保存されている。
(撮影地点:新冠町太陽・秋)
木の皮学校保存室 太陽開拓団発祥の地 新冠聖フランシス教会
木の皮学校保存室②:昭和22年5月、太陽地区に入植した人々でまずは学校をとの思いから、丸太の柱と木の皮を屋根にして、四間に五間の二十坪ほどの広さの「木の皮学校」を創設した。後に、現在の太陽小学校となる。
(撮影地点:新冠町太陽・秋)
太陽開拓団(タイヨウカイタクダン)発祥の地:太陽開拓団入植35周年を記念して昭和57年に建てられたもの。
(撮影地点:新冠町太陽・秋)
新冠聖フランシス教会:「アイヌの父」と呼ばれたジョン・バチュラ-が、アイヌの人々への伝道を目的に高江村に講義所として創設したもの。その後、緑丘に移転したが老朽化したため、昭和53年(1978)に新築された。
(撮影地点:新冠町緑丘・秋)
日新小学校跡地 高江駅跡 ハイセイコー馬像
日新(ニッシン)小学校跡地:現在の新冠小学校の前身になる小学校で、跡地は、新冠コミュニティーセンター前にある。明治初期、移住者多くなってきたことから児童教育が必要になり、開拓者の尽力によって明治18年に開校した。昭和9年までこの場所に所在していた。
(撮影地点:新冠町本町・秋)
高江駅(タカエエキ)跡:現在の新冠駅横の踏み切り前にある。日高線は大正2年に苫小牧を起点として建設され、大正15年には日高拓殖鉄道により厚賀~静内間が開通した。この地区は高江村とよんでいたことから「高江駅」の名がつけられ、木材運搬や人々の生活路線として活用された。昭和23年には「新冠駅」と改められたが、場所は今も昔もあまり変わっていない。
(撮影地点:新冠町本町・秋)
ハイセイコー馬像:新冠道の駅前にある馬像。ハイセイコー馬像は、新冠・東京競馬場・大井競馬場の三ヶ所にある。「昭和の怪物」「野武士」の愛称で日本競馬界に一台旋風を巻き起こし競馬の大衆化に大きく貢献した名馬。
(撮影地点:新冠町中央町・秋)
氷川神社
氷川神社(ヒカワジンジャ):須佐之男命を祭神とし、本社は埼玉県大宮市の氷川神社。同じ名を持つものは東京や埼玉などに多いが、北海道ではここが唯一である。昭和16年(1941)に社殿を改築したが、昭和49年(1974)に老朽化により解体し、昭和53年(1978)に社殿、社務所を新築した。
(撮影地点:新冠町東町・秋)
静内・三石(新ひだか町)(ページの先頭に戻る↑)
皇祖神社 稲基神社 大門
皇祖神社(コウソジンジャ):開拓当初、神社がなかったため稲田邦植が神武天皇を祭神として奉祀したもの。境内には「百年の赤松の碑」とアカマツがある。稲田家はその昔赤松姓を名乗っていたことから、松をシンボルとして大切にしていた。明治6年、淡路から稲田家の令嬢稲田陽子(はるこ)が徒歩で静内に移住する際、途中で立ち寄った青森県三本木(十和田市)で赤松の種を入手した。静内についてから苗を育て移住者に分け与え、静内のあちこちに赤松が植えられるようになった。中野町から田原にかけての道路際や御殿山の稲基神社の赤松もこの時に植えられたものといわれている。
(撮影地点:静内町神森・秋)
稲基神社(イナキジンジャ):御殿山公園内にある稲田家代々の祖霊社。周辺には「開拓記念碑」「北邊開拓の礎」「平運丸遭難者の碑」など稲田家の開拓の歴史をしのぶ碑が建てられている。また、稲田家のシンボルであったアカマツも神社周辺に植えられている。稲田家代々の祖先の霊社。洲本市の稲田屋敷の裏に祭られていたが、北海道移住とともに移された。現在の神社は昭和61年(1986)に建替えられたもの。
(撮影地点:静内町目名・秋)
大門(オオモン):桜で有名な二十間道路の入口(道道静内中札内線沿線)をしめす門。大門は明治37年ごろ皇族の方を迎える行啓道路として造成された二十間道路入口の門柱として設置されたと伝えられており、昭和25年まで残っていた。今でもこの地を大門と呼んでいる。
現在あるものは昔をしのび門柱を復元したもの。

(撮影地点:静内町田原・秋)
お登勢の碑 染退川渡船場跡 シベチャリチャシ跡
お登勢(オトセ)の碑:二十間道路の途中に位置する開拓の物語「お登勢」の碑。船山馨の小説で明治の静内開拓を描いた「お登勢」がテレビドラマになったのを機に設置されたもの。「お登勢」は、幕末から明治維新にかけて生きた徳島藩家老稲田九郎邦植とその家臣の静内移住と開拓の物語を描いたもので、登場人物のモデルの一人が岩根静一といわれる。
(撮影地点:静内町田原・秋)
染退川渡船場跡(シベチャリガワトセンバアト):渡船場跡:寛政11年(1799)から明治39年(1906)に静内橋が架設されるまでの間、静内川には丸太舟などを使っての船渡しがあり重要な交通手段として使われていた。明治15年平水時の川幅は約90m、洪水時では約130mで、渡賃は人12銭、馬20銭とされていた。静内橋:西忠義日高支庁長をはじめ戸長総代人の努力により、明治39年5月15日当時の最新の技術による鉄筋コンクリート製橋桁の木橋静内橋が完成された。この橋は、昭和10年に架け替えられるまで使用され、その後撤去された。現在の橋は、昭和47年に完成した。
(撮影地点:静内町静内川・冬)
シベチャリチャシ跡:真歌公園内にあるチャシ(砦)跡。寛文9年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られており、「シャクシャインのチャシ」とも呼ばれる。国指定史跡の一つ。
(撮影地点:静内町真歌・冬)
シャクシャイン像 東静内漁場跡の碑 静内会所跡の碑
シャクシャイン像:シャクシャイン:寛文9年(1669)に和人と戦ったシベシャリアイヌの長。シャクシャインの戦い:静内川の上流の狩猟権をもつ(ハエ)のオニビシと、下流の漁猟権をもつシャクシャインの争いは、慶安元年(1648)以来続いていたが、寛文3年(1663)有珠岳の噴火による獲物の減少などにより激しくなり、寛文8年オニビシがシャクシャインに殺されてしまった。以前より松前藩に近いオニビシ勢はウタフを松前に送り、武器や兵糧の援助を求めたが、松前藩はこの争いがアイヌ間の争いに終わらず、対和人の戦いに発展することを以前より恐れていたため、援助を断った。ウタフは帰路病死し、このことが松前藩による毒殺と伝えられ、それまでにもアイヌ間にあった、交易の交換率の不平等などの反松前感情が一気に高まり、シャクシャインを長とする大規模な戦いになった。
(撮影地点:静内町真歌・冬)
東静内漁場跡(ヒガシシズナイギョジョウ)の碑:国道235号線沿い海側にある稲田藩開拓の歴史をしのぶ碑。往時、この地には場所請負人の漁場があり、一帯には倉庫や番屋が立ち並んでいた。明治4年(1871)静内に移住した旧稲田家臣の人々はこれらの建物を仮の宿とし、国元から携帯してきた衣類・夜具をはじめ家財道具などを今の東静内にあった漁場倉庫に保管していたが、それが火災のため焼失するという不慮の災禍に遭ってしまった。冬を向かえ家財道具を失ってしまった暖国生まれの稲田藩の人々の落胆と焦燥が想像できる。
(撮影地点:静内町東静内・冬)
静内会所跡(シズナイカイショアト)の碑:国道235号線沿い山側にある民家の前の設置されている。幅3mの台座に高さ1m前後の青石二つが並べられ、碑文のほかに会所建物の当時の造作を刻んだ銅版の副碑がはめ込まれている。享和2年(1802)幕府は、蝦夷地を直轄支配し、運上屋を会所と改め行政機能を持たせ、付属施設も拡充された。交易の取引所であった静内会所は、安政5年(1858)に東静内に移され明治までその姿を留めたといわれている。
(撮影地点:静内町東静内・冬)
益習館跡の碑 金刀比羅神社 開拓者集団上陸地記念碑
益習館跡(エキシュウカンアト)の碑:金刀比羅神社内に設置されている稲田藩の寄宿制の私塾「益習館」の跡地の碑。高静小学校の前身といわれる。益習館は、兵庫県淡路島から静内に移住した稲田家家臣が明治4年にこの地にあった増上寺末寺の頓成寺を仮校舎として子弟の教育を始めた学問所。「益習館」の名称は淡路洲本にあった稲田家の学問所の名称を踏襲したもの。明治6年に目名に移され通学制となり、目名教育所と改称され、本道教育の先駆けとなった。明治12年に現在の神森会館の位置に移転改築され、高静小学校となった。
(撮影地点:静内町東静内・冬)
金刀比羅神社(コトヒラジンジャ):国道235号線沿いに位置する。境内には益習館跡の碑がある。明治以前から存立し、元静内から会所移転の際、現在地に移転され、昭和63年(1988)に改築された。 万延元年奉納の手水鉢や慶応3年奉納の絵額が現存する。いすれも交易船の航海安全・場所の繁盛を祈って奉納されたものである。
(撮影地点:静内町東静内・冬)
開拓者集団上陸地記念碑(カイタクシャシュダンジョウリクチキネンヒ):稲田藩の開拓の歴史の始まりといえる場所に建てられた記念碑。静内町百年記念事業による史跡標示地の一つ。石碑の全体は船の形を表し、直径15センチほどにくり抜かれた丸い穴は、遠く遥かな淡路方面を眺めて昔の労苦をしのぶというデザインになっている。明治政府から静内新冠両郡の支配を命じられた阿波徳島藩の洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の旧家臣移住者546名は、明治4年、汽船3隻に分乗して洲本港を出発し、この地から静内に上陸した。
(撮影地点:静内町春立・冬)
豊畑移住遺跡碑 アイヌ古式舞踊(シャクシャイン法要祭) アイヌ野草園
豊畑移住遺跡碑(トヨハタイジュウイセキアト):淡路国三原郡から集団移住した場所をあらわす碑。昭和10年に建立され、昭和27年に修復された。明治18年5月、淡路国三原郡の本門仏立講の信者が、信仰の法灯を守り北海道に新天地を開こうと集団移住した。洲本から汽船に乗った一行は静内の海岸に上陸し、徒歩でルベシベ(豊畑)を目指した。この石碑のある場所で3晩の野宿をしながら2棟の草小屋を建てて仮の住居として過酷な開墾生活を送り、今の豊畑の基礎を築いた。
(撮影地点:静内町豊畑・冬)
アイヌ古式舞踊(コシキブヨウ)シャクシャイン法要祭:毎年9月23日に開催されるシャクシャイン法要祭では道内各地のアイヌ古式舞踊をみることができる。アイヌ古式舞踊は、アイヌの伝統的芸能で、自然の中からうまれた唄・踊りなどが儀式や祭事で演じられることが多い。静内には、ポロリムセ(大きな輪踊り)・エレムンコイキ(ネズミ捕りの遊び)・ホイヤホー(鶴の舞)などが伝承されている。昭和56年静内民族文化保存会が、道内の他の7団体とともに国の重要無形民族文化財の指定を受けた。
(撮影地点:静内町真歌・秋)
アイヌ野草園(ヤソウエン)の風景:アイヌ民俗資料館前にアイヌの文化関連植物が植えられている。利用方法などを書いたプレートが、植物ごとに設置されている。
(撮影地点:静内町真歌・秋)
船場家のイチイ 三石神社 延出神社
船場家(フナバケ)のイチイ:川崎舟「南越丸」の船頭船場三太が家屋を建てた際に、移植したイチイの木。昭和61年(1986)に三石町指定文化財となる。船場宅は柱などには桂が使われていた。明治39年(1906)に長男勇蔵に相続され、内部の一部が改造されたが、昭和46年(1971)ころまでは大方昔のまま残っていたという。
(撮影地点:三石町越海町・秋)
三石神社(ミツイシジンジャ):三石町開拓者小林家の祖、三石場所請負人楢原屋半次郎(小林屋半次郎)が姨布に弁天社を建て、市杵島比売神を祀ったのが始まりといわれる。 文政9年(1826)に二代目小林重吉らが再建造営し、天保4年(1833)の三石支配人仁木長兵衛とともに社殿を建立。明治8年(1875)に神社制度の改革により稲荷神社と改称した。明治33年(1900)、現在地に移転改築し、昭和36年(1961)、現在名に改称。昭和56年(1981)の集中豪雨よる裏山崩壊や、昭和57年(1983)の浦河沖地震による被災のため、昭和60年(1985)に再建された。
(撮影地点:三石町本町・冬)
延出神社(ノブシュツジンジャ):明治19年に幌毛方面に移住した土居万太郎他7名が当時御神礼を携行し、これを奉祭していたが入地者の増加に伴い神社進行の緊急を知り、明治33年1度帰国、淡路国阿萬村の神官と協議し同村の氏神亀岡八幡神社の御分霊を幌毛村の中央清浄地に奉還した。同じころ、下辺訪に入地した木田伊勢吉、木田常夫等も淡路より天照大神の御分霊を携行し辺訪に御社をつくり、これを奉斉した。しかし、いずれも大正時代になり改築が必要となり両者協議の上、両部落の中央の地である現在の位置に合併社殿を新築し移転した。それから後もこれを両村の神社として奉斉、その横には稲荷の小祠が建立された。
(撮影地点:三石町豊岡・秋)
開拓百年之碑 三石山円昌寺 円昌寺のアカマツ
開拓百年之碑(カイタクヒャクネンノヒ):延出神社の入り口付近に建立されている。先人の労苦をしのび業績を讃えた碑。
(撮影地点:三石町豊岡・秋)
三石山円昌寺(ミツイシザンエンショウジ):明治29年管内信徒の請により兵庫県三原郡北阿萬村薬王寺住職が本桐に来て布教し、明治30年三石山の内命を受け、神奈川県大磯町字西山磯円昌寺を兼務し移転し、本堂を建立した。大正元年八十八ヶ所を開所し、大正15年に大鐘楼堂を建設落成する。真言宗東寺派。神奈川県円昌寺を移転、本堂庫裏などを建立。
(撮影地点:三石町本桐・秋)
円昌寺(エンショウジ)のアカマツ:樹齢110年のアカマツが円昌寺境内に植樹されている。
(撮影地点:三石町本桐・秋)
高田屋嘉兵衛翁碑 鉱山跡らしき穴
高田屋嘉兵衛翁碑(タカダヤカヘイオウヒ):もともと昭和2年(1927)に三石小学校前に建立されていたものを、昭和62年(1987)に現在地に移設したも高田屋嘉兵衛は北方交易の先駆者で、海運や漁業を成功させた人物で、三石町の開拓にゆかりが深く、かつて活躍した太平洋と誕生の地『淡路島』を望む場所に建てられた。
(撮影地点:三石町鳧舞・秋)
鉱山跡(コウザンアト)らしき穴:三石川沿い林道を三石ダムに向かう途中にある穴。中は木の枠組みがされていた痕跡があり、鉱山跡かもしれない。
(撮影地点:三石町美河・秋)
浦河町(ページの先頭に戻る↑)
赤心社記念館 荻伏開拓功労者の像 日本キリスト教団元浦河教会
赤心社記念館(セキシンシャキネンカン):赤心社の事務所として現在の荻伏駅前に建設されたもの。 当時としては珍しい洋式建物で、通称アメリカ大工といわれた棟梁田中伊輔によって建てられ、事業視察に訪れる高官の休む場所とされた。大正初期に事務所を海岸沿いに新築したため空家となり、大正7年(1918)、旧荻伏村に寄付されて公会堂として荻伏支所庁舎の位置に移転された。大正14年(1925)から荻伏村役場として使われていたが、昭和29年(1954)、役場庁舎新築に伴い現在地に移設され荻伏郷土館となる。昭和54年(1979)に新築当初の赤心社事務所の姿に復元工事が行われ、現在、浦河町立博物館荻伏分館として赤心社の資料を収蔵。
(撮影地点:浦河町荻伏町・秋)
荻伏開拓功労者(オギフシカイタクコウロウシャ)の像:明治34年(1901)に浦河支庁長として赴任し、日高の発展につくした西忠義、明治13年(1880)赤心社を創立し、初代社長となった鈴木清、明治15年(1882)に移民83名を率いて荻伏に移住し、開拓に尽くした澤茂吉を、開拓功労者として称えるために作られた銅像で、故本郷新の若い頃の作品。
(撮影地点:浦河町荻伏町・秋)
日本キリスト教団元浦河教会(モトウラカワキョウカイ):私立赤心社学校が設立され、校舎兼教会として荻伏駅前に建設された。明治27年(1894)、元浦河赤川橋南詰に新会堂を改築する。大正7年(1918)、教会堂を赤川橋より1.2Km海岸より(荻伏町15)へ原型のまま移転し、増築した。昭和57年(1982)の「浦河沖地震」により会堂が危険建築物となり、昭和58年(1983)に解体して、「北海道開拓の村」に移設し、昭和60年(1985)に新会堂が竣工された。
(撮影地点:浦河町荻伏町・冬)
浦河神社 大黒座 正信寺
浦河神社(ウラカワジンジャ):浦河郡の総鎮守。寛文9年(1669)頃、松前の将、佐藤権左エ門が東蝦夷地鎮撫の守護神として大物主命を祀るため建立した祠と享和1年(1801)当時、浦河、様似、静内の三場所の請負人、渡島の佐野嘉衛門が稲荷大明神を祀るために建立した祠、そして、享和2年(1802)に南部藩藩主南部大膳太夫が市杵島姫命を天女宮殿浦河大明神として祀るために建立した祠を、天保13年(1842)に浦河漁場支配人近江屋周助が、豊漁、航海安全等を祈願して、石屋根の社殿を建立して合祀し、稲荷社としたのが始まり。昭和27年(1952)の十勝沖大地震等によって被害を受け、社殿を修理し、その後増築などをして現在にいたる。
(撮影地点:浦河町大通・秋)
大黒座(ダイコクザ):大黒館として開館、大正14年(1925)の浜町大火によって焼失したが、直ちに再建し大黒座と改称した。戦時中一時休館したが、昭和24年(1949)より開館、昭和28年(1953)に改築し、その後、平成4年(1992)にミニシアターとして改築し現在にいたる。
(撮影地点:浦河町大通・秋)
正信寺(ショウシンジ):真宗大谷派の寺で浦河で一番開基が古いといわれる。安政5年(1858)、函館に役寺正信坊施設として創立されたのが始まりで、明治11年(1878)に第1世住職となる越中国礪波郡の人、清水綱道が、日高国浦河郡への移転を願い、明治12年(1879)に堂宇を建てて、本尊阿弥陀如来像を持って浦河村鱗別に移転し、本願寺末寺とした。明治21年(1888)に本堂が落成し、明治26年(1893)に清水綱道が鱗別川の貸座敷業跡の建物を利用して庫裏と座敷にあて、本堂を新築移転した。昭和27(1952)の十勝沖地震により破損し、昭和34年(1959)に移転新築された。
(撮影地点:浦河町大通・秋)
日高山光照寺
日高山光照寺(ニッコウザンコウショウジ):曹洞宗。釈迦牟尼如来が本尊。明治15年(1882)に開融禅が地方巡教に際して、当地の信徒と協議し、道宇を建立したのが始まり。明治18年(1885)に竜王堂を建立し、本尊八大竜王を奉る。昭和4年(1929)に西国三十三番観音石像を境内の樹林内に安置し、本堂を大修理した。昭和8年(1933)には庫裏を大改造築し、昭和27年(1952)には十勝沖地震により破損したため、堂宇を大修理し、また、三十三番観音石像も破損したために本堂側に移して安置した。境内には老樹が繁茂し、5月には桜が満開となる。俗称「山寺」といわれる。
(撮影地点:浦河町常磐町・秋)
様似町(ページの先頭に戻る↑)
観音山の御神木 観音山のチャシ跡 等じゅ院
観音山の御神木(カンノンヤマノゴシンボク):明治28年(1895)に等じゅ院の中興の祖である塚田純田が三十三観世音の石像を安置した観音山の頂上にあり、御神木として敬愛されている樹齢400年以上といわれるカシワ。直径116cm、樹高12m。昭和48年(1973)に北海道記念保護樹木に指定される。
(撮影地点:様似町潮見台・秋)
観音山(カンノンヤマ)のチャシ跡:十勝アイヌと様似アイヌが戦ったとされる砦跡。観音山の石ではなく潮見台の奥の石が使われていることがわかっている。
(撮影地点:様似町潮見台・秋)
等じゅ院(トウジュイン):幕府の東蝦夷地における本格的宗教政策として、場所で働く和人の宗教行事の執行や宗門改めを行うとともに、ロシアの千島列島南下に伴うキリスト教の侵入防止などのために建立された蝦夷三官寺(有珠善光寺、厚岸国泰寺、様似等院)の筆頭寺で、道内でも由緒ある寺院の一つ。
(撮影地点:様似町本町・冬)
竜力山智教寺 東金山鉱山跡 冬島の穴岩
竜力山智教寺(リュウリキザンチキョウジ):説教場から発足。宗派は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来、開祖は谷口智幢。境内には、道南以北ではここだけといわれる、江戸時代の墓石群9基がある。境内からはエンルム岬やソビラ岩を望むことができる。
(撮影地点:様似町本町・冬)
東金山鉱山跡(ヒガシキンザンコウザンアト):岡田地区奥の林道から入り、車で30分ほど走ると沢にぶつかる。そこから歩いて沢を上ると左側に金鉱跡がある。海辺川の支流ポロナイの水源に金鉱が発見され、幕府によって採掘が始められる。寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いの際、その抗口が隠され所在不明となっていた。
(撮影地点:様似町西様似・秋)
冬島の穴岩(フユシマノアナイワ):冬島の奇岩穴岩から幌満川河口までの間(約6キロ)の海岸線を気が遠くなるような長い年月をかけて侵食してできた絶景が、日高耶馬渓である。冬島とはアイヌ語でプュシシュマであり、プュ(穴)、シュマ(岩)で穴岩の意味で冬島を意味する。明治30年ごろまでは満潮時には昆布漁船が穴岩を往来していた。
(撮影地点:様似町冬島・秋)
幌満川の橋と旧トンネル 和助地蔵尊  
幌満川(ホロマンガワ)の橋と旧トンネル:幌満川にはじめて架橋されたのが大正11年(1922)で、木造の橋であった。以来、昭和2年に架橋された天然石とコンクリ-トを巧みに利用した近代的永久橋。昭和42年(1967)に国道ル-トの一部変更に伴って新架橋。さらに平成10年(1998)、防災工事として行われた新トンネルとル-トの変更にあわせて幌満大橋が架設された。新旧の橋とトンネルを見比べることができる。
(撮影地点:様似町幌満・秋)
和助地蔵尊(ワスケジゾウソン):寛政11年(1799)様似山道開削工事たけなわの頃、開削を手伝ったり、旅人の利便を図ったりするなどして、人々から信頼を得ていた斉藤和助が文久2年(1862)、91歳で亡くなったが、その後、部落民は、様似場所請負人近江屋藤五郎、幌泉場所請負人福島屋善四郎と相談し、白御影石に地蔵を刻んで、これを「和助地蔵」として建立し、永久にその遺徳を偲び、霊を慰めることとした。最初は、渡し場のあった道筋に建てられたが、明治24年(1891)に海岸道路ができて現在の場所に移された。昭和8年(1933)に堂宇を改築し、今の幌満の守護として毎年慰霊祭が行われている。昭和44年(1969)に様似町指定文化財となる。
(撮影地点:様似町幌満・秋)
えりも町(ページの先頭に戻る↑)
笛舞稲荷神社 住吉神社 歌露稲荷神社の鳥居
笛舞稲荷神社(フエマイイナリジンジャ):幌泉場所支配人杉浦嘉七が創設。保食神を祭る。
(撮影地点:えりも町笛舞・冬)
住吉神社(スミヨシジンジャ):住吉神社は文化9年(1812)に亀田郡函館の嶋屋左兵衛が幌泉場所請負人に命ぜられるにおよび、同文化11年に漁場の安全豊漁を祈念するために現在の社地より北方の住吉山に社殿を建立したのが始まりとされる。創立以来明治31年までこの地にて昆布採取・鮭建網などの業をきりあげる旧暦の10月23日に勘定祝いを兼ねて祭典が執行されていた。明治8年郷社に列せられる。明治31年風害により社殿倒壊により現在地に移転社殿建立。昭和9年12月25日神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和12年10月現社殿改築落成今日に至る。例祭日9月15日には特殊神事海上神輿渡御が1時間半に渡り執行される。
(撮影地点:えりも町本町・冬)
歌露稲荷神社(ウタツユイナリジンジャ):幌泉場所杉浦嘉七が創立したといわれる。保食神を祭る。
(撮影地点:えりも町東洋・秋)
襟裳岬の豊国丸殉難者追悼碑 襟裳神社の境内 一石一字塔
豊国丸殉難者追悼碑(ホウコクマルジュンナンシャツイトウヒ):昭和4年(1929)、乗員209人を乗せた豊国丸が函館を出港し、襟裳岬沖で座礁沈没し、78名が死亡行方不明となり、その追悼を目的に設置されたが、平成3年(1991)の暴風雪で倒壊し、えりも町が修復。
(撮影地点:えりも町襟裳岬・冬)
襟裳神社(エリモジンジャ):島屋佐兵衛が漁場請負人になるとき岬の岩の上に建立し、保食神を祭ったのが始まり。明治8年(1875)には、立地条件が悪く祭祀に不便であるため別の場所に移転したが、村内に火災、悪疫が流行したので、神慮によるものと明治25,26年(1892,1893)ごろに現在地に移転された。
(撮影地点:えりも町襟裳岬・冬)
一石一字塔(イッセキイチジトウ):百人浜という名の起こりは、「昔、北海道警備に当たった南部藩の御用船が東蝦夷地に向かう途中、大時化に遭い、遭難し、乗組員100人余りがようやく九死に一生を得てこの浜にたどりついたが、それもむなしく飢えと寒さに苦しみ、ついに屍体となって砂中に埋まった。」とのいわれにより、その弔いとして様似等樹院の初代住職秀暁が妙法華経無量品第16巻の全文字を1石に1字ずつを書いたものを村人たちが埋め、その上に塔を建てたのが「一石一字塔」といわれる。
(撮影地点:えりも町庶野・冬)
庶野稲荷神社 目黒稲荷神社
庶野稲荷神社(ショヤイナリジンジャ):庶野桜公園内にある稲荷神社。春にはエゾヤマザクラが公園内に咲き、美しい。他にもシラネアオイやヒトリシズカ・ムラサキケマンなどが咲く。
(撮影地点:えりも町庶野・秋)
目黒稲荷神社(メグロイナリジンジャ):幌泉場所支配人杉浦嘉七が創立したといわれる。保食神を祭る。
(撮影地点:えりも町目黒・秋)

2.観光資源調査のトップページへ