「北海道・日高管内に係る【歴史上人物50人・年代順】一覧!」

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■ 北海道・日高地方は、道内の中では「かなり古い歴史」を持つ地域です。 地域の歴史を知ることは、活力と魅力ある地域づくりを進めるために重要な「地域の誇り」や「郷土愛」を育みます。

■ このたび、過去の歴史を「❶江戸時代・❷明治時代・❸大正時代以後」の3つの時代に区分し、北海道・日高地方に関わった【歴史上の人物(50人)】を、その人物が主に活躍等をした年代順に、「次の3つの項目」をまとめたので掲載します!

  • 『 ★ 人 物 名 』(生誕)~(死没)
  • 【 関 連 写 真 】
  • 【 経   歴 】

人物1 (JPG 55.5KB)

人物2 (JPG 61.6KB)

■ なお、本ページは、平成13年(2001年)に、日高支庁(現日高振興局)環境生活課が中心となり、多数の文献から作成した【日高の歴史的文化活用資源リスト】をもとにまとめたものです。

 当該リストは、本ページ最下段の「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」のページから、ご覧いただけますので申し添えます。

白地図_日高地方2分の1 (PNG 22.8KB)

(参考)北海道日高振興局管内の7町の地図

❶.江戸時代の人物一覧 (★20人)

1.児玉喜左衛門 2.オニビシ 3.シャクシャイン 4.大河内善兵衛 5.近藤重蔵 6.最上徳内 7.中村小市郎 8.斎藤和助 9.伊能忠敬 10.原新 11.比企可満 12.間宮林蔵 13.秀暁 14.高田屋嘉兵衛 15.高田屋金兵衛 16.福嶋屋(杉浦)嘉七 17.慈真 18.山田文右衛門清富 19.松浦武四郎 20.矢本蔵五郎

❷.明治時代の人物一覧 (★20人)

21.稲田九郎兵衛邦植 22.原田安太郎 23.飯田信三 24.互野留作 25.小林重吉(三代目) 26.エドウィン・ダン 27.ジョン・バチュラー 28.平村ペンリウク 29.鈴木清 30.澤茂吉 31.岩根静一 32.関融禅 33.田中五郎右衛門 34.谷口智幢 35.塚田純田 36.古川足(アシノカル) 37.エディース・メアリー・ブライアント 38.西忠義 39.目曲久助 40.金田一京助

❸.大正時代以後の人物一覧 (★10人)

41.対馬政雄 42.幌村運八 43.手塚信吉 44.違星北斗 45.ニール・ゴードン・マンロー 46.二谷一太郎 47.鍋沢元蔵(モトアレンク) 48.織田ステ 49.浦川タレ 50.萱野茂

❶.江 戸 時 代 (★20人)

★1『 児玉喜左衛門 』(不明)

【写真は「西様似方面」(様似町)】

1

【 経   歴 】

● 天草島原で発生した「切支丹宗徒の反乱」の敗残者として、様似ウンベツ川の支流ポロナイ水源の「東金山」で働いていたが、【正保元(1644)年】に松前藩につかまり、ただ一人江戸に送られた。

● 人格に優れ、島原城内でも「知名の武将」と考えられる。

★2『 オニビシ 』(不明)

【写真は「静内川」(新ひだか町)】

2

【 経   歴 】

● シュウムンクル(西方人)で「豊郷の長」。

● メナシクル(東邦人)の長の「カモクタイン、シャクシャインと対立」し、承応2(1653)年カモクタインを討ったが、【寛文8(1668)年】シャクシャインにより謀殺される。

★3『 シャクシャイン 』(不明)~ 寛文9(1669)年

【写真は「シャクシャインの像」(新ひだか町真歌)】

3

【 経   歴 】

● メナシウンクルの「シベチャリアイヌの長」で、寛文8(1668)年以前から静内川沿岸の漁猟権の争奪で、対立関係にあったサルンクルのうち、ハエウンクルと呼ばれていた人々の長であったオニピシを討ち殺した。

● 【寛文9(1669)年】に「不公正な和人の交易に対して謀反を起こすが(シャクシャインの戦い)」、同年、松前の将、佐藤権左衛門の謀計により殺される。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

13シャクシャイン中略7 (JPG 102KB)

★4『 大河内善兵衛 』(不明)

【写真は「様似会所跡」(様似町)】

4

【 経   歴 】

● 「様似会所初代詰合(責任者)」で、幕府使番蝦夷地御用掛であった。

● 【寛政10(1798)年】近藤重蔵、最上徳内、間宮林蔵、比企可満を随行させ「東蝦夷地を巡察」し、様似に至る。

● 享和元(1801)年には再度訪れ、幕命を受けて「山道の開削の指揮監督」に当たった。

★5『 近藤重蔵 』 明和8(1771)年 ~ 文政12(1829)年

【写真は「黄金道路」(えりも町)】

5

【 経   歴 】

● 明和8(1771)年「江戸」に生まれる。

● 寛政9(1797)年に、松前蝦夷地処分と異国取締りに関する意見書を若年寄堀田正敦に提出し、使番大河内善兵衛政寿の部下となって「蝦夷地を巡察」し、【寛政11(1799)年】以降、日高管内にも度々訪れている。

● 「ルベシベツ山道を開削」したり、比企可満とアイヌの慰撫教化と北辺の鎮護を謀って義経祠を建立し、江戸神田在住の大仏工法橋善啓に作らせた「義経像を安置」するなどしている。

● 「直参の旗本で学者」でもあったが、傲慢で専横であったと言われ、様々な逸話が残っている。

● また「晩年は不遇」で、文政12(1829)年に幽居中に中風で亡くなる。

★6『 最上徳内 』 宝歴5(1755)年 ~ 天保7(1836)年

【写真は「猿留(さるる)山道付近の海岸」(えりも町)】

6

【 経   歴 】

● 宝暦5年「出羽国」村山郡楯岡生まれ。

● 26歳で江戸に上り、本田利明に「天文、測量を学び」、師の代理として北海道に入り巡察した。

● 【寛政11(1799)年】に近藤重蔵と千島を調査し、その後「猿留(さるる)山道の開削工事」を担当し、長く後世に残すためにも丁寧に工事を行ったが、それに対して財政難などの理由により幕府の反発にあい、約1ヶ月程度で解任された。

● 結果、猿留山道はルベシベツ、様似山道とともに「格別難儀な道」として、悪天候以外はほとんど利用されなかったと言われる。

● アイヌ語に精通し、アイヌ民族に日本語を教え、「最初のアイヌ語辞典を出版」した。

● 天保7(1836)年「82才」で亡くなる。

★7『 中村小一郎 』 宝歴7(1757)? 年 ~ 文化8(1811)年

【写真は「日高耶馬溪」(様似町)】

7

【 経   歴 】

● 「下野国」馬彦村生まれ。

● 様似会所初代詰合(責任者)で、【寛政11(1799)年】幕府使番蝦夷地御用掛の大河内善兵衛政寿指揮のもと「様似山道開削の現場監督」として活躍したといわれる。

● 早くから「蝦夷地調査に何度も来ており」、天明4年(1785)年に国後島まで、寛政4年(1792)年には宗谷から斜里まで、様似会所勤務後の享和元年(1801)年に樺太東海岸まで調査している。

● 文化8(1811)年に「病気」により没する。

★8『 斎藤和助 』 明和8(1771)年 ~ 文久2(1862)年

【写真は「和助地蔵尊」(様似町幌満)】

8

【 経   歴 】

● 【寛政11(1799)年】頃、南部(現在の青森県太平洋側)から様似町に移住し、昆布等を採取して生活していたが、様似山道開削工事の際に「用具の工面や作業者の面倒を見るなど協力」し、また、休息所や旅宿の世話等旅人の利便を図るなどし、その功績により山道が開通したとき、「冬島から幌満川までの地域の海産の自由採取権」などが与えられた。

● それによって一躍分限者となったが、部落の人々との親和協力は続け「絶大な信頼」を得ていた。

● しかし、文政4(1821)年に直轄領が松前藩に返された際、「その権利は没収」、追放され、姿を消した。

● 安政3(1856)年、再び幕府直轄領になったとき、どこからか戻って、あいかわらず「部落のいろいろなことに協力」しながら平和な生活を続けた。

● 文久2(1862)年「91歳」で亡くなった。

★9『 伊能忠敬 』 延享2(1745)年 ~ 文政元(1818)年

【写真は「猿留(さるる)山道付近の海岸」(えりも町)】

9

【 経   歴 】

● 江戸中期の「測量家」。

● 延享2(1745)年「上総国」武射郡小堤村生まれ。

● 少年の頃から算数、測量を好みこれを研究し、寛政7(1795)年「51歳のとき江戸に上り」、その道の名家に教えを請うたが、すでにその学識は専門家をしのいでいたといわれる。

● 幕府から警備の必要上「日本各地の直轄地の測量」を命じられ、日高支庁管内には【寛政12(1800)年】に訪れ「海岸一体を測量」した。

● 文政元(1818)年「73歳」で没する。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

ベスト7 (JPG 96.2KB)

★10『 原新介 』(不明)

【写真は「沙流(さる)川橋」(日高町)】

10

【 経   歴 】

● 寛政11(1798)年、幕府は蝦夷地警備を強化するため、津軽藩500名強を沙流以東、南部藩500名を浦河以東の警備に当てたが、このとき農業に従事しながら警備にあたったのが「八王子千人同心」で、新介(新助)はその同心頭の原半左衛門の弟で、【寛政12(1800)年】に「沙流(さる)を開墾」した。

★11『 比企可満 』(不明)

【写真は「シノダイ岬」(日高町)】

11

【 経   歴 】

● 西丸徒目付をもって蝦夷地に出張を命じられ、【享和元(1801)年】に幕府使番蝦夷地御用掛であった大河内善兵衛に随行し「東蝦夷地を巡察」した。

● この途中、近藤重蔵と謀って門別町シノダイに祠を建立し、「義経像を安置」した。

● 「この像」は寛政11(1799)年、江戸居住の仏師法橋善啓の彫刻による。

★12『 間宮林蔵 』 安永4(1775)年 ~ 天保15(1844)年

【写真は「襟裳岬」(えりも町)】

12

【 経   歴 】

● 安永9(1780)年「常陸国」筑波郡上平柳村に生まれ、幼少の頃から地理学、数学を好んでいた。

● 寛政12(1800)年に幕府の普請役雇となり、蝦夷地に渡って「伊能忠敬に測量を学び」、【享和元(1801)年】には大河内善兵衛に随行して「東蝦夷地を巡察」し、享和3(1803)年以後、東蝦夷地、南千島を測量した。

● 文化2(1805)年には天文地理御用掛として「日高のシツナイ(現在の元静内)に勤務」し、文化5(1808)年から樺太に渡り海岸線測量に従事し、文化6(1809)年に樺太が島であることを発見、「間宮海峡と命名」する。

● その後は「異国船渡米の見聞や隠密活動」に従事し、天保14(1844)年、65歳、江戸の自宅で病死した。

★13『 秀暁 (しゅうぎょう) 』(不明)

【写真は「一石一字塔」(えりも町)】

13

【 経   歴 】

● 「等澍院」初代住職。

● 「下総国」吉崎村生まれ。

● 享和3(1803)年、幕府は観音寺住職のまま、向う10年東蝦夷地の寺院へ派遣することとし、文化元(1804)年、共の者11名と蝦夷地へ旅立ち、「函館奉行の指示により様似」に向かった。

● 【文化3(1806)年】本堂と庫裏の普請にかかり、完成の際には近隣の和人のみならず「アイヌの人々も招き」、本尊である薬師如来の勧請供養を行った。

● また、海難者追善供養のために「1石に1字ずつ妙法蓮華経如来寿量品を写経」するなどして、言葉の通じないアイヌの人々に対して直裁的行為を通して、視覚的な布教効果を図った。

● 文化4(1807)年、函館達奉行に護摩堂の普請を願い出るが、その許可を見ぬまま「44歳」でなくなった。

★14『 高田屋嘉兵衛 』 明和6(1769)年 ~ 文政10(1827)年

【写真は「高田屋嘉兵衛翁碑」(新ひだか町三石温泉前)】

14

【 経   歴 】

● 明治6(1769)年「淡路国」津名郡志本村生まれ。

● 22歳のときに摂津国兵庫西出町で回漕店を経営し、寛政8(1796)年「蝦夷との交易のため」所有船の辰悦丸(1500石積)に乗って函館に来たのが、北海道との縁の始まり。

● 寛政10(1798)年、函館に支店を設け、それを弟の金兵衛に任せて、自らは「エトロフへの航路探索や幕吏間宮林蔵に従ってカラフトへ」渡っている。

● また、寛政11(1799)年には近藤重蔵のエトロフ開発に際し、様似から出航して先に見定めていた潮流を利用して「無事エトロフに渡り」、その成功によって、文化7(1810)年に場所請負を命ぜられ、文化13(1816)年には根室場所、「【文政12(1829)年】には幌泉場所」を請負った。

● 文化9(1812)年にロシア人に捕らえられカムチャツカに至った際、「日本に幽囚されていたゴロウニン奉還を約し」、斡旋努力したことにより、ロシア人は大いに感謝して、これに報いるために高田屋の船舶はいかなることがあっても一切劫掠などしないなどの密約をしたといわれる。

● 「弟の金兵衛に家業を譲って」からは淡路に隠居し、文政10(1827)年、病のために59歳で没する。

★15『 高田屋金兵衛 』 文政9(1826)年 ~(不明)

【写真は「様似沖合」(様似町)】

15

【 経   歴 】

● 択捉航路を開いた「高田屋嘉兵衛の弟」。

● 「幌泉場所の請負人」となり手腕を振るうが、【天保2(1831)年】様似沖合いにて雇船がロシヤ船に襲われ、酒を奪い取られたことにより「密貿易の疑いで江戸に召還」され、天保4(1833)年、江戸追放取り潰しとなる。

★16『 福嶋屋(杉浦)嘉七 』(不明)

【写真は「當世武(とせっぷ)大明神」(えりも町)】

16

【 経   歴 】

● 函館の回漕業者であり、十勝・幌泉両場所の漁場経営をしていた「福嶋屋の二代目忠三郎」のこと。

● 福嶋屋は【天保9(1838)年】から幌泉場所を請け負い、えりも町内各地に「神社や石碑を建立」した。

★17『 慈真 (じしん) 』(不明)

【写真は「等澍院」(様似町)】

17

【 経   歴 】

● 「等澍院第8世住職」で、常に馬にまたがり広い地域を巡回していたので「馬追い上人」と呼ばれた。

● 病馬等を預かり治療していたものが繁殖して増え、幕府の許可を得て「シャマニ牧を開設」した。

● 等澍院の「記録の整理」も行った。

★18『 山田文右衛門清富 』 文政3(1820)年 ~ 明治16(1883)年

【写真は「門別稲荷神社」(日高町)】

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【 経   歴 】

● 山田家は代々「文右衛門を襲名」し、場所請負人として活躍した。

● 清富は函館福山城下に生まれ、9代目の養子となり、「10代目文右衛門」を継ぐこととなる。

● 【嘉永5(1852)年】「勇払、沙流、厚岸、根室の場所請負人」となり、漁場開発に努め、カラフトなど数個所の漁場を開き、また、昆布の発生が乏しかった沙流場所沿岸で「昆布投石を行い」繁殖に工夫した。

● 慶応3(1867)年には、社殿が腐朽した「門別稲荷神社社殿等を独力で造営」する。

● 明治2(1869)年に開拓史が場所請負制度を廃止したあと、清富は「勇払に隠居」する。

★19『 松浦武四郎 』 文政元(1818)年 ~ 明治21(1888)年

【写真は「松浦武四郎の碑」(新ひだか町真歌)】

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【 経   歴 】

● 文政元(1818)年「三重県」一志郡須川村生まれ。

● 「北海道の名付け親として有名」で、弘化2(1845)年に外国が北方をうかがっているとの風説を耳にして、蝦夷探検のため渡航し、「6回(20年)にわたって蝦夷地の内陸部まで探検」し、この際、道路の開削、鉱山の発掘、要塞地の選定等を行った。

● 【安政5(1858)年】「6回目の蝦夷地探検で日高支庁管内」を訪れている。

● 明治2(1869)年には、蝦夷地開拓御用掛の命を受け開拓大主典として登用され、「道名の儀につき意見書」を提出し、開拓史が北海道名、国名、郡名を選定する際、大きな影響を与えた。

● 明治21(1888)年「71歳」のとき卒中のため自宅で没する。

(参考)【日高文化歴史散歩】~★ブラ・ラブヒダカ!

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★20『 矢本蔵五郎 』 文政8(1825)年 ~ 明治27(1894)年

【写真は「様似郷土館」(様似町)】

20

【 経   歴 】

● 文政8(1825)年「下北郡」生まれで昆布採りをしていたが、勤勉家で温厚なため、【慶応元(1865)年】頃「様似会所に入り、ついにその支配人代」になった。

● 会所廃止後は「郵便、運輸交易、旅籠屋、酒の醸造など」さまざまな事業を起こし、様似地方の産業・商業・運輸を一手に引き受けていた。

● 明治12(1879)年には、56トンの西洋帆船弘済丸を建造し「様似~函館間を往復就航」させたが、明治25(1892)年頃、様似港東泊りに停泊中、大暴風雨にあってエンルムの磯鼻で難破してしまった。

● 明治27(1894)年「70歳」で没する。

❷.明 治 時 代 (★20人)

★21『 稲田九郎兵衛邦植 (いなだくろべえくにたね) 』 安政2(1855)年 ~ 昭和6(1931)年

【写真は「開拓者上陸地記念碑」(新ひだか町元静内)】

21

【 経   歴 】

● 静内町「開拓の祖」。

● 徳島藩「淡路洲本の城代家老」として14500石を領する重臣であったが、徳島藩が反目し、明治3(1870)年、ついに徳島藩による稲田家襲撃に至った(稲田騒動(庚申事変))。

● その結果、襲撃の首謀者たちは厳罰を与えられ、淡路は徳島藩領から分離されて兵庫県の管轄となり、同年「九郎兵衛とその元家来に静内移住開拓」を命じられた。

● 【明治4(1871)年】「今の元静内に上陸」、総勢137戸546人が移住して、静内町と新冠町を支配した。

● しかし、前増上寺漁場請負人佐野専左衛門から、倉庫、漁具など一切を譲り受けたが、折からの凶漁に加え火災が生じ、倉庫、漁具を焼失したが、「皇祖神社、教育所を設けて開墾に努め」、新冠郡の増支配を受けたが、同年8月にはすべての支配が罷免され、土地開拓のことも全て開拓使に移管された。

● 西南戦争にあたり、旧臣とともに東京まで出陣し、明治28(1895)年に静内の不動産を弟邦衛に譲り「徳島県で余生」を送る。

★22『 原田安太郎 』 文政6(1823)年 ~ 明治34(1901)年

【写真は「日高耶馬溪」(様似町)】

22

【 経   歴 】

● 文政6(1823)年「淡路の洲本」生まれ。

● 性剛毅沈着、温顔強力で、しかも「武術に秀でていた」ので、君寵を集めていた。

● 明治4(1871)年「開拓移民団として静内に入植」し、間もなく火災にあって財産を残らず焼失した。

● その後「目名に行って開墾」を始めた。

● この頃、浦河郡役所が住民の安全とならず者の取締を兼ねた仕事に肝の太い、武術に秀でた人を探していたのに応募し、この難所に【明治7(1874)年】「物騒な状況の中で旅籠屋の経営」を始めた。

● 「稲田家の倉庫火災のときの保管責任者」であったことから、その責任をとるために様似に来たともいわれる。

● 明治34(1901)年「79歳」で没する。

★23『 飯田信三 』 弘化2(1845)年 ~ 大正3(1914)年

【写真は「門別漁港」(日高町)】

23

【 経   歴 】

● 「滋賀県」坂田郡生まれで、万延元(1860)年に彦根藩に仕え、天誅組の変、戊辰の役などに従軍した。

● 明治4(1871)年に「彦根藩の北海道開拓農夫頭」となって門別町に渡来し、【明治8(1875)年】には駅逓取扱となった。

● 明治9(1876)年には馬20頭を購入して繁殖を図り、また、明治43(1910)年には下総御料牧場より牝馬6頭、新冠御料牧場より種牡馬1頭を購入し、馬匹の改良を図り、産馬組合を組織するなどして「日高の馬産に貢献」した。

● そのほか、明治14(1881)年には酒造業を開始したり、明治20(1887)年には帆船数隻を購入して函館との海路を開いたり、明治37(1904)年に門別本町で回漕店を経営したり、漁業組合を組織して頭取となるなど「日高の開発」に資した。

● 明治37(1904)年には「道会議員」となる。

● 大正3(1914)年「69歳」で没する。

★24『 互野留作 』(不明)

【写真は「旧門別町平賀地区」(日高町)】

24

【 経   歴 】

● 明治7(1874)年に平賀に移住し、【明治8(1875)年】に日高で初めて水稲の試作に着手し、失敗を重ねつつ、掛水を温める方法を案出して「稲作を成功」させた。

★25『 小林重吉(三代目)』 文政8(1825)年 ~ 明治36(1903)年

【写真は「新ひだか町三石総合支所」(新ひだか町)】

25

【 経   歴 】

● 初代楢原屋「半次郎」は、文政元(1818)年に三石場所請負を許され、三石町における「和人定着による漁業の初め」となった。

● 半次郎は松前福山に帰って隠居するため、文政6(1823)年に「甥の重吉が2代目」となって、三石場所を請け負った。

● 2代目は屋号を「小林屋」に改称し、養蚕所、駅逓の設置等を行ったが、天保4(1833)年に亡くなり、「その長男庄五郎が9歳で家督を相続して三代目」となった。

● 三代目重吉は「三石町の開祖」と言われ、場所廃止後も漁場持を命ぜられ、【明治9(1876)年】には洋帆船万通丸を手廻船にして就航させ、「日本で2番目の海員学校を創始」したり、また、明治10(1877)年には漁具、魚網改良の製材所を開いたりした。

● 中国への昆布輸出の基礎をつくり「三石昆布を全国的に有名」にした。

★26『 エドウィン・ダン 』 嘉永元(1848)年 ~ 昭和6(1931)年

【写真は「新冠旧牧場跡」(新冠町)】

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【 経   歴 】

● アメリカ「オハイオ州」スプリングフィ-ルドで生まれる。

● 明治6(1873)年、北海道開拓使顧問「ホ-レス・ケプロン将軍の要請」で、開拓使雇いの農業教師として25歳のときに来日し、明治9(1876)年に札幌官園へ赴任して牧場の整備を行った。

● 【明治10(1877)年】には、明治5(1872)年に黒田清隆開拓使長官が開設した「新冠牧場を視察」し、洋式牧場として馬匹改良事業を行い、アメリカ産の種牡馬の輸入と改良、厩舎や牧柵の建設、飼育作物の栽培などについて指導した。

● ダンの指導は牛の飼育、牧場の整備などにとどまらず、「バタ-、チ-ズ、練乳の製造、ハム、ソ-セ-ジの加工」など精力的に仕事を行った。

● 明治15(1882)年に任期を満了し離道するが、明治17(1884)年には「外交官」として再来日し、明治26(1893)年には駐日米国公使として活躍した。

● 昭和6(1931)年「東京都代々木の自宅」で没する。

★27『 ジョン・バチェラ- 』 安政元(1854)年 ~ 昭和19(1944)年

【写真は「バチラー保育園」(平取町)】

27

【 経   歴 】

● 明治10(1877)年にイギリスから来道した「英国聖公会(アングリカン・チャ-チ)の宣教師」。

● 【明治12(1879)年】聖公会北海道伝道の先駆者ウォルタ-・デニングとともに「はじめて平取を訪れ」、アイヌ語を学ぶ。

● 明治13(1880)年再来し、日高地方の伝導を任せられるが、その後「飲酒を禁じた」ことなどにより住民から反感を受け、明治17(1884)年に平取での伝道を一時中止したが、明治24(1891)年、上平取に聖公会を開いてからは「特にアイヌ婦人に布教活動」を行った。

● また、布教活動のかたわら「アイヌ文化の調査研究に従事」し、アイヌ語辞書など多数を著した。

● また、明治14(1881)年以降、数回に渡って新冠町を訪れ、明治31(1898)年に「聖公会新冠(高江)講義所を設立」し、キリスト教の布教とともに、アイヌ児童への教育を行った。

● 第2次世界大戦の勃発により、アイヌ民族の養女八重子を残して帰国し、「故郷」で没した。

★28『 平村ペンリウク 』 天保4(1833)年 ~ 明治36(1903)年

【写真は「義経神社」(平取町)】

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【 経   歴 】

● 幕末から明治にかけて「日高沙流川筋の実権を握っていたアイヌの人」で、早くからアイヌ民族の教育の必要性を認め、【明治12(1879)年】ころから「バチラ-と親交」があり、そのアイヌ語の先生となった。

● 寛政11(1799)年に近藤重蔵が寄進した平取町義経神社の御神体である「源義経像を現在地に遷祀」し、宮守として晩年を送ったことから、境内に頌徳碑が建立された。

★29『 鈴木清 』 嘉永元(1848)年 ~ 大正4(1915)年

【写真は「赤心社記念館」(浦河町荻伏)】

29

【 経   歴 】

● 「赤心社の社長」。

● 神戸の実業家で、【明治13(1880)年】に「赤心社を創立」したが、現地の指揮は副社長の澤茂吉にまかせた。

★30『 澤茂吉 』 嘉永6(1853)年 ~ 明治42(1909)年

【写真は「元浦河教会」(浦河町)】

30

【 経   歴 】

● 嘉永6(1853)年「三田藩」九鬼藩主の馬廻り役、澤甚佐衛門の長男として生まれる。

● 17歳のとき慶応義塾に入り「福沢諭吉の門下生」となったが、兄弟等が亡くなったため三田に戻り、塾の開設、神戸で組合組織による製乳業等を始める。

● 赤心社鈴木清から「第2次移民派遣の責任者」になるよう懇望され、母、妻子とともに【明治15(1882)年】に神戸を出発し浦河町荻伏に渡る。

● 掘っ建て小屋を作り「雨露をしのぎながら開拓」に励み、明治17(1884)年に私学「赤心学校」を設立した。

● 明治19(1886)年には西舎及び荻伏に「商店を開設」、醤油の醸造等を行った。

● 様々な分野で指導者に推され、明治40(1907)年には「道議会議員」に選出される。

● 明治42(1909)年「病気」により没する。 

★31『 岩根静一 』(不明)

【写真は「門別郵便局」(日高町)】

31

【 経   歴 】

● 【明治15(1882)年】波恵に「民設としては道内で初めて」、850町歩の牧場を開き、馬325頭、牛41頭を放牧し、馬産の改良、増殖を図った。

● 明治26(1893)年~大正4(1915)年「門別郵便局の初代局長」となる。

● 船山馨の小説「お登勢」に登場する人物のモデルとなったといわれる。

★32『 関融禅 』 嘉永2(1849)年 ~ 昭和3(1928)年

【写真は「光照寺」(浦河町)】

32

【 経   歴 】

● 曹洞宗、浦河光照寺の「住職」。

● 「富山県越中国」下新川郡生まれ。

● 【明治15(1882)年】「日高に入り布教」して歩き、浦河に寺を建立することとした。

● 寺号の公称の認可を得て「日高山光照寺」を建立した。

● 頑張りやで負けず嫌いであったらしく、「自ら競馬の騎手や相撲取り」をしたといわれる。

★33『 田中五郎右衛門 』 安政3(1856)年 ~ 大正8(1919)年

【写真は「明治時代のトンネル」(様似町)】

33

【 経   歴 】

● 「福井県」南条郡神山村に生まれ、明治17(1884)年、浦河村鱗別(現浦河町常盤町)に移住。

● 【明治18(1885)年】「様似山道の道路補修工事に参入」し、明治20(1887)年には様似山道下、冬島海岸のトンネル開削した。

● 明治23(1890)年、浦河村に「浄土真宗本願寺派の説教所」を寄進。

● 明治24(1891)年には「猿留(さるる)山道下のトンネル」、明治25(1892)年「ルベシベツ山道下のトンネル」を開削し、以後「浦河井寒台山道、荻伏鳧舞山道の開削等」を手がける。

★34『 谷口智幢 』 天保7(1836)年 ~(不明)

【写真は「智教寺」(様似町)】

34

【 経   歴 】

● 天保7(1836)年「秋田県」仙北郡内小友村生まれ。

● 智教寺の「開祖」。

● 廃寺後の「等澍院の庫裡を仮の住居」とし、護摩堂に残された観音像(元観音堂の本尊)を守るなど、その退廃を防いだ。 

★35『 塚田純田 』 慶応3(1867)年 ~ 昭和9(1934)年

【写真は「三十三観音像」(様似町)】

35

【 経   歴 】

● 慶応3(1862)年「埼玉県」生まれ。

● 【明治23(1890)年】に「等澍院を天台宗様似説教場として再興」した。

● 明治28(1895)年に丸山(観音山)に「観音の石像」を立てる。

★36『 古川足(アシノカル)』(不明)

【写真は「新冠聖フランシス教会」(新冠町)】

36

【 経   歴 】

● 下下方村目名の生まれで「アイヌの中の資産家」といわれた人物。

● 万揃村から元神部村にかけ、113万6千坪の貸与地を得て「牧場」を営んでいた。

● 【明治29(1896)年】私財を投じてアイヌの児童への教育として「古川教育所」を開いた。

★37『 エディ-ス・メアリ-・ブライアント 』(不明)

【写真は「歴史の散歩道の記念碑」(平取町二風谷)】

37

【 経   歴 】

● 明治期に平取で活躍した「伝導看護婦」。

● ロンドンの病院で看護婦をしていたが、ジョン・バチラ-に頼まれて【明治30(1897)年】に平取に来たあと、義経神社下の「ホスピタル・レスツ」で住民の治療に当たりながら、キリスト教を広めるため活動した。

● 延べ13年間の滞在期間中、振内に私塾を設けて子弟教育に尽くしたりして、「慈愛に満ちた精神」で住民のために力を注いだ。

● 明治31(1898)年の「沙流川大洪水」の際には、被災した人達を献身的に世話をして深く信頼される。

● 明治45(1912)年にいったんイギリスの郷里に戻ったが、大正3(1914)年には「再び平取町を訪れ」、育英事業に専念したが、健康を害したため、大正6(1917)年に帰国しその地で没した。

★38『 西忠義 (にしただよし) 』 安政3(1856)年 ~ 昭和9(1934)年

【写真は「西忠義碑」(浦河町)】

38

【 経   歴 】

● 安政3(1856)年会津生まれで、明治26(1893)年に「栃木県足利郡長」となり、足尾銅山鉱毒事件に関わる。

● 【明治34(1901)年】に「浦河支庁長」として日高に赴任し、民間有志と図って日高実業協会を組織し、日高国標銘、日高八大政策などを定め、日高開発に努めた。

● 特に馬産については、「国立種馬牧場」を設置に努め、馬匹輸送上「静内橋」を架設するなど、日高の馬産地としての基礎を固めた。

● 明治42(1909)年に檜山支庁長、明治43(1910)年に小樽支庁長となったが、小樽支庁の廃庁により「退官」した。

● 「日高開発の神」として神格化され、昭和7(1932)年に浦河神社境内に西神社が建立された。

★39『 目曲久助 (めまがりきゅうすけ) 』 明治8(1875)年 ~(不明)

【写真は「日高町の開祖入地跡の碑」(日高町)】

39

【 経   歴 】

● 日露戦争の勃発によって銃床材の需要が増大し、その材料である「クルミを求めて日高町に来た多くのきこり」の一人。

● 日露戦争の終結後、【明治38(1905)年】頃に金野源八郎の説得もあって「千呂露に入植」し、日高町最初の鍬をおろす。 

★40『 金田一京助 』 明治15(1882)年 ~ 昭和46(1971)年

【写真は「金田一京助の歌碑」(平取町二風谷)】

40

【 経   歴 】

● 言語学者、国語国文学者で、アイヌの口承文芸「ユカラ」を世界的に有名にした。

● 岩手県盛岡市の出身で、【明治39(1906)年】「東京帝国大学文学部言語学科在学中」に北海道をまわり、ユ-カラに接した。

● 沙流川筋のアイヌからも資料を集め、教えを請うことが多く、「その歌碑」が萱野茂二風谷アイヌ資料館横に立っている。

● 昭和29(1954)年「文化勲章」を受章。

日高開発史

(北海道日高支庁「日高開発史(昭和29年2月)」より)

❸.大 正 時 代 以 後 (★10人)

★41『 対馬政雄 』 明治26(1893)年 ~(不明)

【写真は「アポイ岳」(様似町)】

41

【 経   歴 】

● 青森県に生まれ、北海道師範学校2部を卒業後、様似小学校に赴任し、【大正4(1915)年】に「冬島小学校に校長」として栄転した。

● 以来「アポイ岳の高山植物に魅されて」、休日のほとんどはもっぱら植物採集に費やし、標本を作っては北大、東大に送って指導を受けながら「研究に没頭」していたといわれる。

● 後年「北大の宮部金吾博士とも懇意」となり、その愛弟子である近藤金吾は13回もアポイ岳に上り、また、館脇博士が「アポイヌプリの植物」と題して423種をあげているが、それらへの影響は対馬政雄の研究宣伝に端を発したといわれる。

● 彼の研究成果は「ヒダカソウ」の発見を含め新種15種、北海道初発見3種、日本初発見5種、新変種1種、珍種2種その他14種、計40種が報告されている。

★42『 幌村運八 』 明治元(1868)年 ~(不明)

【写真は「三石昆布」(新ひだか町)】

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【 経   歴 】

● 知比恵多通喜の5男として生まれ、明治27(1894)年に分家した後、知人に見習いながら農業を営む傍ら「昆布採取を業として生計」を立てていた。

● 【大正7(1918)年】に札幌市で開催された「開道50周年記念博覧会」に長切昆布を出品し、きわめて優秀と認められて入賞、宮内省にも買上げられた。

● 三石の昆布は、もともとアイヌの人々が採取していたが、和人が移住して特に清国貿易が行われるようになると、競って粗製乱造の昆布を輸出したので、信用を失い不振を極めていたが、「その三石昆布の名声を盛り返し」、全国的に有名にし、価格安定の動機付けとなった。 

★43『 手塚信吉 』 明治25(1892)年 ~(不明)

【写真は「幌満第二発電所」(様似町)】

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【 経   歴 】

● 「日高の電気王」。

● 愛知県八名郡山吉田村に生まれで、東京電灯株式会社の少年工として入社し、電気技術の習得に努め、大正3(1914)年には22歳で「独立して電気工業を経営」し、大正15(1926)年には丸電工業株式会社を創始した。

● この頃、浦河町にあった日高電気株式会社が経営難に陥っており、その建て直しのために【昭和2(1927)年】専務取締役に就任し、翌年「日高電灯株式会社を創立」した。

● 「百数十キロにわたる長送電線」を設置し、千歳水力発電から供給を受けるなどして電灯と動力需用の増大を図ったが、経営は依然と苦しく、最大の欠陥である長電線のための送電ロスによるコスト高を解消するため、日高地方のあらゆる河川を調査して、昭和9(1934)年に「幌満川水力電気株式会社を結成」し、翌年、幌満川に水力発電所を建設した。

● その後、ここの点灯の増加や地方の工業生産の飛躍により電力供給が不足したことから、昭和13(1938)年に従来の会社を北海道電気興行株式会社と改称し、「第2発電所と同社日高工場の新設工事に着手」し、昭和15(1940)年に完成した。

● さらに戦後の電気不足を打開するため、資金難を乗り越えて、昭和29(1954)年に幌満川上流に6000Kwの「第3発電所」を建設し、これによって幌満水系の東邦電化自家発電所ができあがリ、「合金鉄の生産工場」が動き出した。

● また「東邦オリビン株式会社の創設」など様似町の経済発展に業績を残した。

★44『 違星北斗 』 明治35(1902)年 ~ 昭和4(1929)年

【写真は「町立二風谷小学校」(平取町)】

44

【 経   歴 】

● 「アイヌ民族の歌人」で余市町生まれ。

● 歌人、文人を目指しながらも、同胞の生活向上のための「社会活動に貢献」した。

● 【昭和の初め】に平取町に滞在し、バチラ-幼稚園で働きながら「小樽新聞に短歌などの投稿」を続けた。

● 昭和3(1928)年、売薬行商となって各地をさすらったが「結核のため29歳で早逝」。

● 昭和5(1930)年に遺歌文集「コタン」が出版された。

● 民族差別の激しい怒り、絶望感を嘆く中にも「アイヌとして自負心を表出した作品」が多い。

● 「歌碑」が二風谷小学校の前庭に建てられている。 

★45『 ニール・ゴードン・マンロー 』 文久3(1863)年 ~ 昭和17(1942)年

【写真は「旧マンロー邸」(平取町)】

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【 経   歴 】

● イギリス・スコットランド出身の「医師で人類学者」。

● 明治25(1892)年に来日し、横浜ゼネラル・ホスピタル病院や軽井沢サナトリウムを歴任する傍ら、「英国王立人類学研究所の通信員」として考古学の研究に従事する。

● 明治38(1905)年に日本に帰化し、【昭和5(1930)年】から翌年にかけて「アイヌ民族研究のため二風谷に滞在」し、昭和7(1932)年から永住した。

● イヨマンテの研究のかたわら、アイヌの衛生思想の向上と「地域住民への無料診療」を施す。

● 昭和17(1942)年「病気」により没する。

● 旧邸は「北海道大学北方文化研究室」となり、その前庭には顕彰碑が建立された。

★46『 二谷一太郎 』 明治25(1892)年 ~ 昭和43(1968)年

【写真は「二風谷アイヌ文化博物館」(平取町)】

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【 経   歴 】

● アイヌ民俗伝承者で、アイヌ名はウパレッテといい、「晩年には民族文化の保存と記録に積極的に協力」し、多数の記録映画などに出演した。

● 「萱野茂が収録した言葉録音テ-プ」は、アイヌ民族の教典的な価値があるものとなっている。

● 「82歳」でなくなる。 

★47『 鍋沢元蔵(モトアレンク)』 明治18(1885)年 ~ 昭和42(1967)年

【写真は「門別図書館郷土資料館」(日高町)】

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【 経   歴 】

● 門別町の偉大な「ユーカラ伝承者」。

● 独学で日本語、仮名漢字を学び、生存中に「貴重なユーカラを大学ノート40冊に筆録」。

● 「82歳」でなくなる。

★48『 織田ステ 』 明治39(1902)年 ~ 平成5(1993)年

【写真は「新ひだか町アイヌ民俗資料館」(新ひだか町)】

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【 経   歴 】

● アイヌ民族叙事詩「ユーカラの伝承者」。

● 静内町で生まれ、祖母にアイヌ民族の風習、生活文化、言葉や、ユ-カラをはじめ「幅広く民族文化を承継」し、町内外の研究者の調査に積極的協力して保存に努めた。

● ユ-カラの一部が「静内地方の伝承-織田ステノの1、2、3」としてまとめられた。

● 昭和59(1984)年「道文化財保護功労者」として表彰される。

★49『 浦川タレ 』 明治32(1899)年 ~ 平成3(1991)年

【写真は「浦河町立郷土博物館」(浦河町)】

49

【 経   歴 】

● 全道でも数少ない「アツシ織手」で、【昭和41(1966)年】姉茶民芸品研究会を組織し、アツシ織り、花ござ、木彫りの研究、伝習を行う。

● また、ウポポ(座り唄)、ツムセ(踊り)などの伝承、指導にも努め、昭和59(1984)年に「アイヌ古式舞踊」として国の重要無形民芸文化財に指定された。

● 昭和57(1982)年にアイヌ文化の伝承、保存の功績で「道文化財保護功労表彰」を受け、昭和58(1983)年には「アツシ織」が町の無形文化財に指定され、その技術保持者として指定される。

★50『 萱野茂 』 大正15(1926)年 ~ 平成18(2006)年

【写真は「二風谷アイヌ資料館」(平取町)】

50

【 経   歴 】

● 平取町二風谷生まれで、昭和28(1953)年頃からアイヌ文化の伝承保存に努め、古老からユ-カラ等の聞取り、録音、民具の収集活動を行い、【昭和47(1972)年】には「二風谷アイヌ文化資料館」を設立した。

● 昭和50(1975)年には平取町議となり、昭和58(1983)年「子供達を対象にしたアイヌ語教室」をはじめて先駆的役割を果たした。

● 平成6(1994)年には「アイヌ民族初の国会議員として参院議員」となり、アイヌ新法の制定等に貢献した。

● 「アイヌ文化に関する著作を数多く発刊」し、菊池寛賞、吉川英治賞など多くの賞を受賞している。

● 平成12(2000)年「北海道功労賞」を受賞し、平取町名誉町民となる。

(参考1)「【日高三街道(国道)】沿いの歴史的文化資源 巡覧!」

【日高の歴史的文化活用資源リスト】より作成

三街道 (PNG 76.3KB)

「1.【優駿浪漫街道(国道235号線)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(日高門別~新冠~静内~三石~浦河)

優駿ベスト7 (JPG 107KB)

「2.【とんがりロード(国道336号線等)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(浦河~様似~えりも)

とんがりベスト7 (JPG 99.5KB)

「3.【沙流(さる)ユーカラ街道(国道237号線等)】沿いの歴史文化資源 巡覧!」(日高門別~平取~日高)

沙流ベスト7 (JPG 128KB)

「(姉妹編)【日高の内陸(道道)】沿いの歴史的文化資源 巡覧!」(新冠~静内~三石~浦河)

内陸ベスト7 (JPG 117KB)

(参考2)「【日高の歴史・文化の世界へ】ポータルサイト!」

  1. 「日高の歴史的文化活用事業【日高の歴史的文化活用資源リスト】」
  2. 「北海道・日高管内の【博物館・美術館等】一覧~21!」
  3. 「北海道・日高管内の【文化財・遺産等】一覧!」
  4. 「北海道・日高管内の【主な文化ホール・映画館・公民館・図書館等】一覧!」
  5. 「日高管内・各町別【コミュニティセンター等】一覧!」
  6. 「北海道・日高管内の【各種スポーツ施設等】一覧!」
  7. 「【日高文化歴史散歩】~ブラ・ラブヒダカ!」
  8. 「【日高のあゆみ】~日高支庁百年記念誌~」
  9. 「【日高開発史】~日高支庁八十年記念誌~」
  10. 「(概略版)日高の【戦後史(75年間)】年表 × 2021年現在写真集!」
  11. 「北海道・日高管内の戦後75年間【文化・スポーツ史】概要!」
  12. 「北海道・日高管内の戦後【市民活動史 (町内会・青年女性団体・NPO等) 】概要!」
  13. 「全国・全道・日高管内の【戦後・交通安全史】概要!」
  14. 「北海道・日高管内の【主な縄文遺跡】× 2021年秋現在写真集!」
  15. 「北海道・日高管内の【主な擦文・アイヌ文化期の遺跡及びチャシ跡】× 2022年秋現在写真集!」
  16. 「文化振興に係る【各ホームページ】へのリンク集」

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